評論集目次
@ 「お笑い論」 タイトル『愛と笑いが人類を救う』
A 「生活設計論」
B 「酒の楽しみ」
C 「剣道」
D 「囲碁」
E 「海外旅行」
F 「名店」
G 「職業回顧」
H 「依存症」
I 「読書」
J 「健康」
K 「退職後」
L 「国際化」
M 「流行歌」
N 「金銭」
O 「情報」
@お笑い論 『愛と笑いが人類を救う』
|不真面目でないお笑い論|
芸名 スィ−トポテト小川
はじめに
筆者は謹厳実直・生真面目で宴会の席ではまさに「朴念仁」であったと言ってよい
ほどだった。
初めてキャバレ−に行った時は、ホステスに「あんた真面目ね」とからかわれて
しまった。
生来冗談とは無縁で、若い頃は、職場でも石部金吉でとおっていたと思う。
それが、段々オヤジギャグを連発できる自分に意識的に変えていった。
笑いの効用に気がついたからである。
ギャグが言えるのは、ある意味では能力である。頭の回転がシャ−プでないと発揮
できい。
性格的な面や羞恥心といった束縛も働くが、ユ−モアが場にマッチした場合は
なごやかになる。それに抱腹絶倒はまさに快感であり、生きる意欲も湧いてくる。
ジョ−クが言えるのは、何より心の余裕が必要である。
欧米のスピ−チでは、ウィットに富んだ話が、「前座」になっているのが一般的なようだ。
日本では、武士が笑いを恥とした文化があり、いまだに笑ってはいけないという風潮が
残っているという指摘がある。笑いがそれほど市民権を得ているとは言い難い。
一度、単なる批評文でなく、本格的な「笑い」について自分なりの考察をしたいとの欲求が
あった。
それに、お笑いの大御所「ビ−トたけし」ついて言及したいとも常々考えていた。
また、医学的な見地からの理解も一度はしてみて、笑いのメカニズムについても納得
していければとの思いもあった。
捜索ではなく「創作」の笑いも試論として提示もしてみた。
単に、評論に終始するのでなく大げさに表現するならば「生きる上での笑い効用論」
として大「冗談」に構えてみたかった。
そこで、この拙稿では四部構成にした。
第一章で「笑いの解析」を試みた。
第二章で「ビ−トたけし」研究である。
第三章で「笑いの医学的」分析をして、
第四章で「創作笑い」で心底笑ってしまうようにした。
「泣くのはいやだ。笑っちゃおう」の清新な精神で、誠心に書きあげたもりである。
目次
1 笑いは生きる上での潤滑油
@ 笑いのある世界
A 教養や人格の発露としての笑い
B 人間関係や生きる上での効果
C 「笑える世界」の楽しみ
2 ビ−トたけし研究
@ 高校の先輩としての北野たけし
A 芸風にみるビ−トたけし
B マルチタレントとしてのたけし
3 笑いの医学的効用
パッチアダムスにみる学術的考察
および「生きがい療法」
4 創作漫才台本
『海外旅行はうれし恥ずかしおもしろい』 「5分間笑ってもらいます」
1 笑いは生きる上での潤滑油
@ 笑いのある世界
関西に年数回は行く。用件を済ませてから見所が三つ見付けた。一つは「食い倒れ」、
もう一つは関西弁を初めとする異文化的様相、そしてお笑いである。特にお笑いのメッカ
「難波花月」劇場のライブが楽しみだ。
難波商法なのか、満席でも次々と入場させる。わたしも階段のそばで地べたリアン
として鑑賞した。
そこでは観客とコメディアンの「笑いのデスマッチ」が展開していた。
その中では、自分のネタに拝借したものもある。
例えば、桂文珍の「鶴の恩返し」のオチがある。
鶴が機織りをしていた部屋から、音が消えた。心配になり見にいったら家財もあとかた
なく消えていた。
「鶴でなく鷺(詐欺)だった」という。 肥満の人は役所に「脂肪届け」を出す話も
あった。
「おかんのビ−ル」の小話。それは、「缶ビ−ル」の意味等々。私は次第に気分が
晴れてきた。
A 教養や人格の発露としての笑い
西岡秀雄先生の名・迷講義を受講できた。 雑志会主催の’97年8月24日?に
「一宮館」で行なわれた『日本人の源流を探る』というテ−マでの講演会でのことである
これほど面白い講義はなかった。
出席者誰からも「講義に抗議しないぐらい」よい内容だった。
開口一番の話から魅了されてしまった。
大学生の時に召集を受け、専攻を問われて「こうこがく(考古学)」と答えたら「こうくうき
(航空機)」の部隊に配属されたそうである。
「和菓子を買ってきて」と差し出されたのはド−ナツだった。おもわず「ド−ナッてんの」
等々。
本筋のテ−マも高尚な内容で感銘をうけたが、とどめのユ−モアがあった。
永六輔が学生時代に英語の授業で、「私は東京に住んでいます」の過去形を問われて、
「I live in Edo」と回答したそうである。
忘れがたく、かつ笑った後に自然に心に浸透する講義であった。
B 人間関係や生きる上での効果
戦場で生き残れる兵士の資質のひとつが、冗談が言える事だという。
それだけ沈着冷静という意味である。
職場でもTPOにもよるが、冗談がいえるような関係が人間関係を円滑にし、仕事面でも
スム−ズにいく事が多い。
つまり、気持ちの上での余裕とか平常心がないと、冗談を言える頭の回転が働かない。
それに、うわべの関係から殻を打ち破る感情面での同調性の具体的表現の一つが、
「気のおけない関係」=冗談のキャッチボ−ルと思えてならない。
逆に、親密でなければ通用しないだろう。 また、メンタルヘルスの面からも「笑い」の
効用は大きい。
笑いは苦労や悲しみからの一時の忘却の役割をも果たす。 いわゆる「落ち込み」の
際は、趣味に没頭したり何らかの形で発散する事も一方策ではあるが、
寄席などでの大笑いも効果絶大である。文珍は「お笑い」を「癒し産業」と位置付けて
いるほどなのだ。
C 「笑える世界」の楽しみ
一時の幸せを求める事はできる。手っ取りばやいのはサ−ビス産業からのサ−ビス
の享受だろう。
その中でも即興的な笑いから得られる刹那的快楽がある。
それには、プロの笑いを鑑賞することだ。 寄席やテレビ等を通じての演芸鑑賞の
事である。
サ−ビス産業の極致かもしれない。
女性が鑑賞しても「ゲイの世界」の事である。
ここではまさに「お笑いの世界」が展開している。
プロの世界は、爽快さと共に人生訓の宝庫かもしれない。
まさに、笑いが救済効果になる気がしてくる。
受容的共鳴感とでも表現できる教訓が快感と共に皮膚感覚で吸収できるものと
感じている。
2 ビ−トたけし研究
@ 高校の先輩としての北野たけし
筆者との関わりあいは、全くない。
但し、高校の先輩としての親近感はある。
都立足立高校の卒業生名簿には彼の名前がある。
筆者はたけしの傍若無人とも見える芸風が高校の「自由闊達な校風」と無縁では
ないものと確信している。
無論、たけし自身の才能ではあるが、その才能を醸成させる青春期に過ごした
高校での影響も考慮する事も無視できない。
よく言えば「天衣無縫」的教育を体得しえたような結果とも思われ、同窓生的見方
からの推察が成り立つ。
たけし自身もテレビ番組で「高校の時に、進学クラスの脇でわざと騒いで授業を
妨害した」等の模範生でない過ごし方を吐露している。残念ながら大学時は不明だが。
A 芸風にみるビ−トたけし
一言でいえば「毒舌」で直截的である。 タテマエの世界とは対極のギャグで
勝負する「胸元直球派」といえなくもない。
逆に考えれば、ブラックユ−モアでのスタイルに彼自身が束縛されているとの
見方もできよう。
それに、なかなか口にだせない本質を代弁している。
該博な知識に裏打ちされた洞察力が持味と思えてくる。
悪口で本質を抉りだす、自称「天才たけし」の才能こそ特筆ものであると看破したい。
但し、監督した映画での突発的な暴力シ−ン」等の「悪態」的な場面には辟易するが。
B マルチタレントとしてのたけし
たけしの才能は芸人としてよりも映画監督をはじめとするマルチタレントと評価すべき
であろう。
タレントとして、CMのギャラも最上級の一人で評価が高い。
肩書きは「タレント・俳優・映画監督等」と紹介している書籍がある。
評論でも独特のスタイルで社会風刺がきいている。
画才もあるようだ。
まさに「多芸」の人と言えようが、最近は肝心の舌鋒がト−ンダウンして
(功なり名を遂げたせいか)守りに入っているように思えてならない。
3 笑いの医学的効用
(パッチアダムスにみる学術的考察および「生きがい療法」)
末期がん患者に「笑い療法」を取り入れ、成果をあげている。
単に「気力の充実」という側面だけではない。自然治癒力の増大だという。
映画「パッチアダムス」を思い出す。
精神科医の実話に基づいて、「笑い」を治療に取り入れるという斬新な手法を
描いた映画のである。
インテリ道化の主人公の破天荒で真摯な生きざまに感銘を受けた。
実在のモデルであるパッチ・アダムスの著作がある。「パッチ・アダムスと夢の
病院」というタイトルで角川書店から’99年に発行されている。
その中の一章に『ユ−モアと癒し、そして夢の病院』があるが、医師としての笑い
の効用が述べられ
ている。
つまり、「ユ−モアが健康の回復・増進に効き目がある」という指摘である。
「人は必須アミノ酸を求めるように、笑いを切望する」のであり、それは「アドレナリン
やエンドルフィンなど(笑うことによって)人間を活性化させる化学物質の分泌が
活発になる」という分析からの帰結だという。
作者自身も、ピエロの扮装や笑いの実践を通じて笑いの効用を体現している点が
驚愕的共鳴を喚起しているように思えてならない。
その点を、末期ガン患者に登山や寄席等に引率して効果をあげている医師が、
「笑いの健康学」(伊丹仁朗著・三省堂・’99年)で医学的に解明している。
「楽しく笑うと、脳の一部の前頭葉が刺激され間脳に伝達して神経ペプチドという
物質をだす。それが
免疫作用のキラ−細胞を活性化させる」(ペ−ジ22〜24)メカニズムだという。
まさに笑いの効用の医学的根拠を感じた次第で、科学的な説明に得心できた。
4 創作漫才台本
『海外旅行はうれし恥ずかしおもしろい』 「5分間笑ってもらいます」
漫才 ヒ−トアップうめし・まつしの脚本 テ−マ 海外旅行談義
うめし「ちわ−、毎度おなじみちり紙交換じゃないヒ−トアップうめしで−す。」
まつし「同じくまつしです。」
うめし「ところで、所ジョ−ジ君じゃなかった、まつし君。海外旅行に行った事が
あるかい。」
まつし「海外。いいね−。伊豆大島に最近行ったばかりだよ。」
うめし「え−。海外旅行の話。外国の事だよ。」
まつし「海外って海の外の事じゃなかったの。こりゃまた失礼しました。」
うめし「いいよ、いつもの事だから。
それで最近は、安いし面白いのでどんどん海外旅行がふえているね。」
まつし「修学旅行も、海外の時代だからね。」
うめし「そうそう、知ってるかい。行く前にちゃんと勉強するんだって。」
まつし「安くしろ、勉強しろとか。」
うめし「ちゃいまんねん。ちゃんと語学とか、現地の情報をしいれるとか。」
まつし「さ−すが。まずスチャワ−デスと親しくなれる方法を勉強しなくっちゃ。」
うめし「何だい。ちょっと下心みえみえじゃない。」
まつし「正直者といって。今は船よりも飛行機の方が安くなっているね。」
うめし「うんうん。百年前と違って80日間世界一周は金と暇さえあれば行けるね。」
まつし「それから体力と根性だよ。」
うめし「根性がいるのかい。」
まつし「機内食を腹一杯たべて、旅行中は絶食してやすくあげるとか。」
うめし「そりゃ、進め電波少年だよ。」
まつし「そうそう、海外旅行で一番困るのは言葉だよね。」
うめし「でもだいたい英語で通じるよ。」
まつし「よく言うよ。簡単に英語がしゃべれば苦労しないよ。
僕は一度ハァイ−と飛行機で言ってから、ジャックと豆の木といった
途端に捕まったよ。」
うめし「それもしかしてハイジャツクと聞こえたんじゃない。」
まつし「うん。ちよっと恥ずかしい。」
うめし「いざとなればカタカナ英語で何とかなるんじゃない。」
まつし「ハロ−ハロ−、何かにハロ−とか数字の三と九でサンキュウなんて。」
うめし「そうだよ。身振り手振りでもなんとかなっちゃうんじゃない。」
まつし「やっぱり根性だよ。通じなくても毎日お通じの要領でやらなくっちゃ。」
うめし「う−ん。北海道の町、よくわっかな−い。」
まつし「まあまあ。何かいわれたら、イエス・イエス・イエスキリストな−んちゃって。」
うめし「たまにはノ−と言わなくっちゃ。」
まつし「ノ−というのも勇気がいるね。少し脳が考えてからノ−なんて。」
うめし「とにかく簡単にはいかないから、何とか解りやすく表現しないとね。」
まつし「知っているかい。中国語ではスツチ−を最初は空中少女といっていたのが、
空中配膳人なんだって。本当だよ。」
うめし「当字って奴じゃないのかい。」
まつし「日本にきたアメリカ人が、ありがとうを英語の鰐のアリゲ−タと覚えたん
だって。スウェ−デン語では、タクソ−というんで僕はヘツタクソ−って
覚えたんだよ。」
うめし「本当かい。なんか語呂合わせだけみたい。」
まつし「入国審査で、添乗員が教えるのは斎藤寝具店だよ。観光という英語は
サイトシィ−グなので斎藤寝具に聞こえてくるんだ。」
うめし「本当かい。それこじつけじゃ−な−い。」
まつし「うんうん。そういう見方もあるね。」
うめし「知ってるかい。写真の時の呼び掛けも国によってさまざまだってね。」
まつし「日本は一たす一はだろ。」
うめし「普通、チ−ズと言わないかい。」
まつし「それはアメリカ流。それでいちたすいちはにというのが日本流。
韓国流はしっているかいる」
うめし「何かいうんだろ。」
まつし「それはキムチというんだよ。」
うめし「こじつけじゃない。」
まつし「まあまあ、いろいろ行き違いがあるからね。これがいった先の違い、
行き違いな−ちゃって。」
うめし「ずいぶん余裕だね。」
まつし「いやいや、余裕しゃくしゃくじゃなくて余裕くしゃくしゃだったりして。」
うめし「海外では勘違いもよくあるね。」 まつし「そうそう、よく迷って思わず
電話で、僕はとこにいるんでしょうと聞いてみたりして。」
うめし「ここはどこ。私は誰の話だね。」
まつし「ところで、本で読んだんだけど幼稚園児と保育士の先生の対話で
おもしろい展開になったそうだよ。」
うめし「やっぱり海外旅行がらみかい。」
まつし「そう。いい子は天国に行き、悪い子は地獄にという話を先生がしたん
だって。そしたら、『僕はいい事も悪い事もしてます』といわれて、
先生が答えたのが『そういう子は中国に行けます』だって。」
うめし「だらだら言わないでこのへんでオチを」
まつし「オチを考えたらオチオチできないな−て。」
うめし「それじゃ芸がない。もっとまともなオチを」
まつし「やはり海外は言葉が通用しないと これからは三ヶ国語をはなせない
とだめ」
うめし「日本語と英語でしょう。それからもうひとつは。」
まつし「そうそう、日本語と英語そして落語だったりして。失礼しました。」
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A生活設計論 「人生いろいろ。時には計画人生」
はじめに
高校生の時に芥川龍之介の「侏儒の言葉」を読んだ。当時は、芥川先生の批評は
『人生の斜め読み』という印象でしかなかった。「人生は一箱のマッチに似ている。
大事に扱うのは馬鹿馬鹿しい。大切に扱わないと危険である。」などは、十代の頭脳
では皮肉にしか読めなかった。しかし、四十代の現時点で反芻すると、含蓄に富んで
いると実感できる。 人生とは何か、いかに生きるべきか。
いわゆる「人生不可解」も一つの卓見だろうが、能動的に生きる事が生き甲斐獲得
にもなりうる。
今回は最初に「生活設計論」を展開し、次に「ひたむきな人生達人」を検証して、
「私家版生活白書」で処世訓を述べてみたい。
1 人生設計の大道
@ 前提条件としての二十一世紀展望
文化的歴史的な生活態度意識は一変するものとは考えにくいと思っていたが、
時代の推移は予想外に急転している。
特に、経済情勢は深刻だ。不況・不良債権・失業といった前門の虎だけでなく、
いよいよ国家財政の破産という後門の狼が暴れだす。
しかし、特徴的な兆候を的確に把握してこそ、将来の洞察が可能になる。
三化社会=「情報機器の実用化が実現した情報化」・「海外旅行や外国人
労働者が珍しくない国際化」・「少子高齢化」を根底に今後は@高速化=技術進歩
による時間的地理的圧縮A多様化=多元的価値観の容認B成熟化=一定の社会
資本の成果を前提にした安定的推移が挙げられ、この新三化社会が旧三化社会と
重層的に影響しあうものと考える。
A ライフプラン検証
高校教科書「生活一般」(東京書籍1999年発行)から概観していく。
「人の一生と家族」の基底は、「生まれた家族」と「生む家族」で、ライフステ−ジ
(人生の各段階=乳幼児期・成人期・老人期等)に大別できる。
自分で選ぶ生き方が人間が他の生物と違う点で、経済的・生活的の二つの自立が
よりよく生き方に必要だ。
日本人が「人生80年」になり、ライフサイクル(卒業・就職・結婚等の共通周期)が親
の世代と異なる。家から個人という旧民法と現行民法の根本相違だ。
B 個人単位での人生設計論
地方公務員向けに「40歳ライフプランセミナ−」を受講した経験がある。
具体的な生涯生活設計が習得できるシステムになっている。ポイントは目標を
各分野で時系列的な表に記入して明確化するものである。根本として健康と
家庭経済の二本柱とし自由時間・家族・仕事・さらに地域社会の分野である。
年単位で長期目標として具現化するのだ。
2 各論としての人生設計
@ 井上富雄氏の事例
個人型生活設計の実践者に井上富雄氏がいる。動機は大病による挫折から
のリカバリ−だという。「25の時、長期人生計画表をつくり、毎日一度はチェック」し、
年度別の目標と実行項目を表に記入する方式である。
「達成率は100%」と著者がいうように完全燃焼の人生のノウハウと言えるかも
しれない。
A 「定年後」にみる事例
人生は成長期・労働期・引退期に分けられる。定職引退後の切実な課題が「自由
時間対策=毎日が日曜日」であり、「定年後
もう一つの人生」(岩波書店1999年)
に多様な生き方が紹介されている。いわゆる「老いるショック」と定年後をみるのか、
計画人生に基づく「自由時間・自立生活・経済自立」の三拍子そろった黄金時代の
岐路が今後はより顕著になるものと推察する。
B 「だめ連にみる脱力人生」
「働かない」・「働かなくていい」を主張し実践しているグル−プが「だめ連宣言」
(作品社1999年)を出版した。
世俗的価値(立身出世や名声等)に反発し「小労働・小消費」を標榜し異色ム−ブ
メントとしている。勿論、存在意義や経済面など致命的弱点を払拭できないが、
社会的セ−フティネットの意味もあり多様な生き方のひとつとして容認したい。
3 「私家版生活白書」
学校教育等で等閑視しているようで、実生活に不可避な事柄を「私家版生活白書」
として展開していく。筆者の生活信条の見解である。
?死生観と悲しみ受容の方策死を「生があるから死がある」ので生(生き方)と
死を表裏一体としてとらえるべきである。外国人タレントで「死に感謝。プレッシャを
与えてくれる恋・旅・仕事・結婚・子供、期限があるからやる気」と論破している。
喪失体験など不幸なことだが人生上ではめぐりあう。感情面では「時薬=時間の
経過による忘却」ぐらいしか想起できないが、ある程度予期して「心の準備」をして
いくのでは大きな相違がでてくる。つまり、悲しみの「心の防波堤」の構築である。
?家計管理
生活費だけでなく、非日常経費(耐久消費財・冠婚葬祭等)や年収の数倍の出費
といえる住居・不動産それに老後資金が人生上で歴然と立ちはだかる。自己の
葬儀・後始末・遺族生活手当等の対策も施していれば、「安心して死ねる」かも
しれない。
?生活設計の制定
「自分未来史」があってもいいはずである。多様な生き方も当然だが、人生航路
において航海図の有無がまさに明暗を分けるものと提起したい。
?法律知識
社会生活において、法律は「見えない鎧」といえる。社会人として、経済観念と
法的知識の修得こそ車の両輪と確信する。
?メンタルヘルス
精神的な落ち込みはカバ−が大変である。趣味や音楽鑑賞で気分転換を図るとか、
日記記入や発声したりしてストレスを「飼い殺し」にするよう努めるのも肝要だ。
?家事能力
家事は火事と同じで放置できない。コンビニ店やコインランドリ−などの出現で、
労力時間の節約も家事能力の一つと思えてくる。
?危機管理
大震災の教訓として「人出と物資はあったが、なかったのはシステム」という指摘が
ある。いざの時をも生活設計に折り込む平素の心構えが安心の一歩だ。
?ホワイトリスト
得難い人脈の意味である。人脈の情報の整理や恒常的な交流(一方的な直流に
ならないよう)の効用を痛感する。
?遺言の作成
自己決算として、人生の回顧・家族友人のメッセィジ−・財産処理を一気に集約して
表明でき、一定期間に更新すると自分の心境の変遷が鮮明になる。
4 「生活の質」=豊かさへの論議
生活は社会との関わりが密接であり、現在は過去の束縛がある。
近代日本は「富国強兵」から戦後は「経済大国」と言える。戦後経済は、起=経済
復興承=高度成長・転=バブル崩壊・結=成熟社会下での軟着陸経済政策に
分けられる。
「暮らし100年の変化」でみると、実質賃金は13倍・エンゲル係数は64%が29%・
労働時間は3千時間から2千時間となり「昔と比較して格段とよくなった」。
筆者が考える現代日本の「豊かさ=生活の質」の見解は社会資本や耐久消費財
等の充実感を足場にする現状満足感と共に、現代型諸問題による不安定感を両面
保持しているのが実相と思慮するものである。
それでは現代型諸問題とは、どのようなものであろうか。筆者の問題意識でまとめる
と以下のとおり。
? 物質的な豊かな生活をおくる上で、その経済的負担である債務奴隷の
拘束状態。 (住宅ロ−ン等を想起してほしい)
? 賃金による生活範囲の規定。
? 現代型諸問題の発生。
(知能犯犯罪、コンピュタ−社会下でのトラブル等)
B『酒を楽しめる日こそ安息日』
酒の話題あれこれ
はじめに
酒は刃物と同じで、飲み方によっては毒にも薬にもなりえる。
社会人になると必須科目の一つとして「宴会」つきあいがある。そこでは、「酒量」の
強弱と場に和む才覚が、宴会を楽しめるかどうか左右するように思う。
酒のいいところは、酒そのものの美味さと、酔いがくつろいだ雰囲気をもたらしてくれる
ところだ。
よくいわれる「百薬の長」等の言葉は、実感として最近分かってきた。
酒のない人生は、筆者にとって気分転換の意味もあり今では考えられない。
この拙稿では、格式ばった話はない。
まず、『酒は大いなる楽しみ』であることを展開して次に『美酒遍歴』で体験的な味わい
を吐露し、酒を社会問題の観点から論述して、最後に、『酔生夢死の世界』(酩酊状態)
という夢想を描くという構成で展開していく。
目 次
1 酒は大いなる楽しみ
@付き合いだけではない酒席
A酒席での時間外の本音の世界
B酒による気分高揚
2 美酒は人生の楽しみ
@ 酒そのものの味あい
A 感動の銘酒
B 渇望の高級酒
3 酒は社会問題としてでも焦点
4 酔生夢死の人生
1 酒は大いなる楽しみ
@付き合いだけではない酒席
社会人になってから、どれだけ酒のつきあいや宴会があっただろうか。
そこではいろいろな論議をした。
冗談に「礼にはじまり宴会で終わる」のが社会人のつきあいと言い合う。
また、いわゆる義理がらみの宴会も多い。 そこでは、時間的空間的な「交流の場」
とも言えるが、アルコ−ルの働きも無視できない。
勿論、分解酵素の有無により酒の消化の強弱には個人差があるので全般的には
肯定しえないが、酒席は意見交換の場としても有効だと言えよう。
A酒席での時間外の本音の世界
いわゆるノミニケ−ションの意味である。
勤務時間内での立場や意識から、酒の作用で一気に「議論のバトルロイヤル」に
昇華することも珍しくない。
時には脱線するが、酒は冗舌の促進剤とも言いかえられる。
このような雰囲気では、いい意味で「からんでくる論議」が展開することもしばしば
ありえる。逆に言えば非公式の本心からの議論(見方をかえれば正気の自制心放棄)
とも思える。
厳しい言い方かもしれないが、筆者は酒の上での失言という言い訳には批判的である。
飲んでいてこそ、本心を吐露できる機会ととらえて全人格的な交流の場にすべきである
ものと考える。
堅苦しいという意見もあろう。
けれども、単なる「飲み会」に終始するのか、絶好の本音の機会にするのかは参加者
の器量とも言いたい。
ここで、筆者と同調的な評論と思われる「雑志」bP4号(1990年)の『酒について
思うこと』(斎藤和良氏著)から抜粋していく。
「(酒について嫌悪し、醜態をしたくないと思っていたが)やましさや欲望のない人は
からんだりあばれたりしない。
固執しないで素直な気持ちで酒を飲むよう心がけた。」として、「楽しく酒を飲み、酔い
潰れてしまいながらなお周囲の人たちに愛されるようならそれこそ幸せな人生だと
思う。」と達観されている。筆者も同感である。
B酒による気分の高揚
適度のアルコ−ルは健康的とさえ言える。 一人酒でも満足できる。
勿論、自己管理の範囲内という前提であるが、酒宴や仕事完了後それにスポ−ツの
後では酒の味は格別で爽快とさえ言える。
ストレス解消法の一つとしても、深酒に気をつけていれば有効といえる。
楽しい酒うまい酒そして、酔うための酒としてうまく活用できるならばまさに「百薬の
長」の名前どおりになるのではあるまいか。 いい雰囲気と酒の酔いによる相乗作用
こそ(さらに温泉などによる清涼感が加われば)桃源郷にいるかのような錯覚さえ
覚える。 「選ばれし恍惚と(二日酔いの)不安」の世界を両方とも感得できる。
2 美酒は人生の楽しみ
@ 酒そのものの味わい
初めの、口に含んだ味わいは格別である。
特に、銘酒といわれるものはそれなりの名声に比例するものがあるはずである。
最初の口に含んだ味と共に、喉ごしの味わいは香りとともに情緒的にせまってくる。
さらに、コンディションによっても左右されるのは当然である。
もっと言えば、雰囲気によっても微妙に加速される。
堅苦しい席や、接待などでは「正気」が酔いを追い出してしまうだろう。
また、地酒はその生産地での飲酒と帰ってきてからの飲酒では、印象が異なるという
声もある。
酒は体質以外にも、いろいろな条件によって「七変化」するかもしれない。
しかし、何はなくとも酒という人は多いだろう。
A 感動の銘酒
初めての海外旅行の際、喜び勇んで無税の酒を購入した。
今でも鮮明に覚えているのは、オ−ルドパ−である。吉田茂や田中角栄さらに
チャ−チルが愛飲したとされるスコッチの至宝のひとつだ。味わいも素晴らしいが、
飲み干してから一息ついた時に余韻があるのに驚いた。
酒そのものの深みと微妙な甘味で驚嘆したのが ブランディ−のレミ−マルタンで
あった。まさに「時の流れの忘れ物」かつ「液体の宝石」という表現に脱帽して
しまった。
その後、本当の果実酒と実感してしまうワインにめぐりあった。
ずばり、ドイツワインで「リ−プウラフミルヒ」(聖母の乳)である。
天然の果実の甘味が、口一杯に膨らんでくる。
市販されている国産物で価格が最高値の「ザ・ウィスキ−」は、実になめらかで
ストレ−トでしか飲む気がしなかった。
実は、筆者はビ−ルが一番すきである。
世界のビ−ルも一通り飲んでみた。
ビ−ルは喉ごしが爽快だ。運動したあとなどは、「よくぞ男に生まれたり(この表現は
誤解される事を承知で使用)」と実感している。
概して、アジア産のビ−ルはライトな感覚で、ヨ−ロッパ産はコクがあるように感じて
いる。
自分がうまいと実感できれば、それが銘酒と言えるのではないか。
B 渇望の高級酒
いつかはと望む酒がある。愛飲者の垂涎の的になっているほどの高級酒の事である。
ちなみに、銘酒のベスト五を特集した雑誌があった。そこには、年代物のスコッチや
ブランディ−が列記されていた。
過去ついつい、重厚な年代物にはしってしまった時期もある。ランク上位の酒に目移り
してしまったからだ。
筆者は個人的に是非ともと、文字通り渇望しているものがある。
まず、年代物のウィスキ−がある。二十一年物の重厚さを感じたが三十年物を是非
一度はと望んでいる。また、自分の生まれた年につくられたブランディ−を飲んでみたい。
それに、最高峰のワインがどんな味か確かめてみたい。
3 酒は社会問題としても焦点
世の中には光と影の部分が、表裏一体として存在する。
酒に対する評価もそうである。
有名なのがアメリカの「禁酒法」だ。 道徳的規範を法的に規制したところにも問題点が
あったが、本来の欲望に規制ができない無謀な歴史的実験だったとも言えよう。
大別して、健康上と社会問題にわけられるものと考える。
個人的レベルでは、習慣性や健康破壊といった具体例が世間では数多くある。
これは酒があるから問題なのか、自制心の欠如と短絡的に断定していいのかいろいろ
な考え方があろう。
それが、いかに規制する事か方法論によっては大きく結果が変わってくる。
また、宗教上の教義からの禁酒の規制があるが、この点は一面では法的規制より
確固たるものかもしれない。
はたして本能としての欲望と、社会規範の調和的融合が可能かどうかという「哲学的・
心理学的・社会学的」なテ−マになろう。
少なくとも、「禁酒法」により非合法組織の財源になって、その組織が肥大化したのも
事実である。
結局は、理想的な目標から現実の落差とのギャップはなかなか強制力でも、必ずしも
完遂しえない証左におわってしまったという見方もありえる。
また、酒は国の財源としても重要である。 それも、単に増税という負担だけでなく、
経済的負担による社会規範的上乗せが期待できる。
つまり、経済的な調節的負担による抑制効果も果たし一挙両得を狙うものである。
この点は、反税務署の姿勢を貫く「どぶろく製造者」からの反論もあるだろう。
規制緩和論者は、同調するかもしれない。 酒による社会的なマイナス面もいろいろ
あるが、社会的合意に近付けるような試行錯誤が今後も、永遠につづくのであろうか。
4 酔生夢死の人生
休日を満喫できる一日を思い描いた事がある。そこでも締め括りは「微酔」である。
「朝寝・朝酒・朝湯」三昧の日々は果たして幸福だろうかという哲学的な価値観論議
は別にしても、夢が現実生活となりえるかといった事もいろいろ意見があろう。
しかし、恒常的な生活の中に健康的で自律的な飲酒は「飲んベい」にとって至福の
時間と共鳴する人もいるはずである。
酔っている時間こそ酔生夢死の時間と筆者は思っている。
ここでは、根源的で空想的な論議に傾斜して、ひとつの提示として「夢想」の世界に
没頭すれば、「悦楽」という観念的な回答があるだろう。
逆説的に言えば、酒の上では箴言的な話もしやすいかもしれない。
「人生いかに生きるか」といった深遠かつ青臭い議論が、臆面もなくできるのも羞恥心
を弛緩させる酒の効力かもしれない。
「仮想現実感」に導く薬と同様の効果が、酒にもあるように感じる。
一面では麻薬的誘惑があるかもしれない。 社会人として、分別をもって能動的に
生きるからには酔生夢死の願望は、単なる「羨望的空想」と一刀両断にしてしまうだろう。
禁酒主義者か飲めない人の指弾かもしれない。
しかし、人間は「希望や夢」が欠落しているならば、情緒喪失の状態で「生きる屍」に
なりかねない。
理想を保持しつつも現実主義者として対処するようにならざるを得ないと、人生を達観
した年配者は言うだろう。
毎日が単に、快楽追求の日々とするならば(そのような事にも程度問題と裏付けが
どうなのか人により違うだろうが)どうであろうか。
筆者は、束の間の休息にこそ意義があるものと考えている。つまり、現世のしがらみ
に拘泥する間にこそ、休息の役割と真の享受的喜悦があるように確信する。
そうであっても、現実の圧迫感から逃避もしたい。そういう願望が渾然となって「酔生
夢死」が希求される土壌になっているかもしれない。
本来の正常なはずの世界の一方で、陰のように表裏一体となっている夢想で安楽な
世界としての「酔生夢死」の幻惑的非日常の世界があってもいいのではないか。
よく言われる「夢とロマン」を保持していく事が、生きがいの支柱になりえるように考え
る。その誘因剤として、酒の役割があるかもしれない。
そして、語るだろう。「ユ−トピアは不確定だが、もしかしたら『酔生夢死』の中にこそ存
在するかもしれない。」と。
C「私の趣味三部作」 (一作目・剣道)
「私の趣味三部作」
(一作目・剣道)
はじめに
私の趣味はいわゆる「広く浅い」。
社会人になってからは、意識的にその趣味を三分野に収斂させていった。
スポ−ツ・教養的分野・単純な娯楽といったものである。
その中でも、剣道は別格である。稽古に行く前には、その厳しさのため必ず「ためらい」
との葛藤がある。
普通、趣味は好きな事で生き生きとして取り組むはずであるが、剣道の稽古はきつい。
けれども、他の趣味以上の快感も得られる 幸い自分なりに現在まで継続して稽古が
続けられた。
二段の免状もいただいた。単に試合だけでなく、(因みに、昇段審査には筆記審査も
ある)体験記と剣道理論面の自分なりの解釈も展開したいと考えている。
剣士として生きる上での人間形成への影響も見過ごせない。
この拙稿では
第一章で剣道との出会い
第二章で稽古の内容について
第三章で剣の道の追究
第四章では「人格形成」への寄与
という構成で展開する次第である。
目 次
1 剣道との出会い
@三十代からの挑戦
Aさまざまな稽古
B実業団的サ−クル
2 稽古は苛酷
@ル−ルのある喧嘩
Aハ−ドな練習
年令にあった合同稽古
3 剣の道探求
4 人格形成上での剣道の役割
1 剣道との出会い
@三十代からの挑戦
勤務先で剣道部をしる事から「剣道の出会い」がはじまった。
入部動機は単純明快で、健康管理の一環としてのスポ−ツ志向であった。
幸いなことに、身近に剣道部員がいた。
まず、稽古風景の見学から始まった。
当時は小学生に教えていたので、数十名の大所帯で一斉の素振りは壮観でさえあった。
通い始めてから半年間は素振りばかりの稽古である。
けれども、小学生を指導するのに大人の眼が多く必要だった。必然的に剣道の力量は
なくてもコ−チ役(といっても怪我防止が主眼だが)となった。その役割にやりがいも感じ
はじめていた。
時には「試合」形式でその小学生達とも対戦した。はじめの頃はまさに「チャンバラ」で
あった。胴が、脇腹どころか尻に打突される始末である。
しかし、辛抱強い剣道部の先輩のおかげで地道に参加し始めた。
Aさまざまな稽古
子供達との合同稽古は、その後おわってしまった。大人だけの稽古は、レベルの差が
大きかった。さらに、他の稽古も参加した。
地域での子供向け剣道教室や、他の区のサ−クル団体等である。
個々の道場では、はっきり述べてレベルの強弱や特色等の差異が明白であった。
やはり、指導者のカラ−が明白に現われる とてもしつけに厳しい剣道教室があり、
スパルタ方式で平気で鉄拳制裁のところもあった。
逆に、こどもの興味を引き出すように、遊びの要素を取り入れて和気靄々としている
道場もあった。
勿論、厳しい道場の方がレベルが高いが、筆者にとっては「強さ追求」に偏った方針
には性格的にもなじめないものがあった。
率直にいって何事にも目標があり、必ずしも「求道者」として一一心乱に打ち込まなく
てもという思いがつよい。
学べき点は吸収しつつも、自己の目標にマイペ−スで地道に望みたいとうのが、偽ら
ない心境になってきた。
B実業団的サ−クル
社会人の剣道サ−クルは、いろいろな側面がある。体育会的な側面や同好会的な結
びつき、それに仕事との両立という制約もある。 逆に、千差万別の集合体としての特色もある。 特に合宿では、年令的に勢いの差がでていた。
最初の頃は、「剣道の里」を標榜している福島県南会津郡伊南村に同行した。
いつも、土曜日に車で到着した。現地では、小中学生が稽古している。その中にまじっ
ての稽古である。
初めて参加した時には、人数と熱気に圧倒されたが、剣を交えるとレベルの高さに驚
嘆した。特に中学生の男子にはたじたじで歯がたたなかった。
ほとんど毎日が稽古であり、十代の伸び盛りの体力や勢いには普段の修練が余程で
ないとたちうちできなかった。
太鼓を打ちならして、神前に礼をする本格的な道場であった。
また、指導している大人の先生方もレベルが高く、交流できたのは有意義だった。
2 稽古は苛酷
@ハ−ドな練習
剣道の稽古は体力・気力の消耗が激しい。 スポ−ツの観点からみれば当然な事で
あるが、しんどい。食後に稽古をした時とか、二日酔いの状態では気分が悪くなる。
剣道の雑誌に「剣道の全力運動の四十秒間は百メ−トルの全力水泳に匹敵」という
記事に思わず実感的共鳴で読んでいた。
通常のスポ−ツよりも「防具」という負荷をかけている分だけ運動量が多い。因みに、
竹刀・面・胴・小手のフル装備で7〜8キロは加算される。それも、相手がいての稽古と
もなるとついつい自分のペ−スが乱される。 特に、全力での稽古ともなると精根果てる
ような感覚である。
武道というよりも、稽古の時は一対一の格闘技という意識の方が強い。
きちんと準備体操をして、一瞬でも気をぬくとたちまち劣勢になる勝負のあやがある。
ある程度の技量がわかる対戦相手はそれなりの対応があるが、全然分からない相手
に全力でぶつかって「参った」として切り上げるしかない。
Aル−ルのある喧嘩
稽古場の風景は、初めて見学する人にとっては異様に映る。何しろ、本気で竹刀での
打突しているのだ。
それも、絶叫のような気合いの発声が飛びかう中で繰り広げられている。
初めて見学した子供が、「人を叩いていいの。」と発言した新聞の投書を読んだ事が
ある。
まさに、非日常的な光景であったことだろう。
少しでも、武道をした人ならば如何に気合いが必要か実感できる。
当然、約束事(ル−ル)を厳守しなければならない。
この点こそが、武道たる由縁かもしれないと思う。
対戦する際に、礼をしてお互いに息を合わせて対峙する。
実際の試合では「始め」という審判の号令からスタ−トとして、必ず審判の進行に従わ
なけてばならない。
格闘技としての基本、ル−ルという「見えない約束事」を守ってこそ全力でぶつかれる
ものである。
B年令にあった合同稽古
道具を使うスポ−ツは寿命が長いという。例えば、ゴルフ・弓道そして剣道などである。
筆者の所属している剣道部では、平均年令四十以上のせいか準備体操の前にジョギ
ングをしてから行なう。もちろん、入念な体操後にも基礎打突をするので稽古時間が半分
をきってしまう。
それから防具をつけての基本打突である。 最後の数分が、全力でぶつかりあう稽古
である。
このような練習スタイルは、中高年者にとっては心身に無理なくうちこめる。
年々、体力は反比例するが精神面では深化していなければならない。
運動面では、退潮気味でも立ち振る舞いに気品なり熟達の片鱗が自ずと表れる。
いわゆる「円熟の境地」である。
稽古でも、年配者は一目瞭然である。何故なら「居座り剣道」をしているからだ。
しかし、実力差のある若年者に対しては容易に負けない。前述したとおり、総合力で
最後に決着する。技・気合・「駆け引き」等の手練手管でいつのまにか圧倒してしまう。
「年功」的技巧での優位差が通用する世界といえる。
3 剣の道探求
剣道は「剣の道」と書く。つまり、求道者としての道を極める命題がある。
それ故、精神面が重視される。
有効打突も「気・剣・体の一致」でないと判定されない。素人の目には、相手にあたっ
ているのに何故、一本としないのか素朴な疑問があるはずだ。瞬間的にきまってしまう
点もあるが、気攻めをしているかとか打突部位が正確かというような点がポイントになる。 気合いが空回りせずに、十分な体勢で相手の防御を突破してこその有効打突である。
変則的な打突ではいけないのは当然であり、この点が「チヤンバラ競技」と異なる。
道場にはいった瞬間から気持ちが「平常心」からとは異なってくる。
「戦闘モ−ド」に切りかわっている。
気を一瞬でも抜いたら、隙が致命傷になってしまう。そうした「求道者」的な姿勢は、
修行者的な研鑽を意味する。
つまるところ、「剣の道」は技能だけでなく全人格的修行と言える。
4 人格形成上での剣道の役割
剣道の理念は、修業を通じての人間形成である。真の強者は「内剛外柔」である。
剣道を通じて知ることができた強者は、例外なく優しかった。
剣道は技術論に終始しない。精神面や性格を反映する「剣風」も包括した総合力の
勝負である。また、自分のスタイルがおのずから表面にも表れてくる。
単に勝ち負けに執着していると、「勝負に勝って剣の道に負ける」事があるかもしれ
ない。 剣道は「礼に始まって礼に終わる」といわれている。
そこでは、切磋琢磨とともに内面の深化が問われてくる。
相撲で言う「品格」と同義語の立ち振る舞いの「自然の所作」が表れる。
それまでの過程は、相当な修練が必要になるといわれている。
剣道が、礼儀を重んじている事と無縁ではない。
単に、運動だけでなく「不屈の意志」も含めた精神面の鍛練こそ剣道の真骨頂と言
えよう。
特に青少年にとっては、説教的訓話よりも稽古を通して自然と身につくものがあると
確信できる。
厳しい稽古に耐え、自分に真の自信があってこそ他者に優しい人格形成が成しえる
のではないか。
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D「私の趣味三部作」 (二作目・囲碁)
はじめに
囲碁は深遠な世界である。碁盤は小宇宙になぞらえられる。
一応、勝負事であるが内容そのものを記録にとれる。また、一度置いたところは動か
せないル−ルなので、終局には白黒の水墨画的図案となる。
平安時代は、貴族のたしなみである琴棋書画という高級な趣味の一つになっていた。
(棋=囲碁の意である)
単に娯楽としても楽しめ、プロの打った棋譜(囲碁対局の記録)をならべかえす事に
よっても一人で「幽玄の世界」に没頭しうる。今回は解説書といった専門的な内容でなく、
体験や考えを披瀝してみた。囲碁のイメ−ジを具体化する試論としたいものである。
目 次
1 囲碁との出会い
@とっつきにくい囲碁入門
A将棋との対比
B性格の反映する盤面
2 深遠な勝負
3 碁敵との交流
4 大局観が養われる囲碁の世界
1 囲碁との出会い
@とっつきにくい囲碁入門
中学の頃に興味本位から「囲碁入門」を読んだが、すぐ挫折した。ル−ルは簡明だが
最初のうちは、わかりづらい。
その後、社会人になってから周囲に「碁打ち」がいた。
直接のきっかけは、人生の多彩な生き方をした人の書物の中に、趣味の分野で「囲碁」
があった。そこで、趣味の充実の意味あいで再度チャレンジしてみようと考えてみた。
今度は入門書をじっくり読破した。そして雑学的な本も読んだ。
ようやく勝敗の付け方がわかってきた。
そして、ハンディ付きの囲碁対戦が始まったが連戦連敗だった。
A将棋との対比
新聞にも、囲碁と将棋の欄があたかもカップルのように並んでいる事が多い。
日本においては、双璧の室内ゲ−ムと思っている。特に比較対象してみると、各々の
個性が際立ってくる。
特徴的なのは、勝負の決着の仕方だろう。 囲碁はつきつめれば、「お互いの囲みあ
いの多寡」であるのに対して、将棋は相手の王将を「屠る」事で決着する。
土俵も違う。囲碁は十九×十九の三百六十一路にたいして、将棋は九×九で八十一
路であり囲碁の方がはるかに広い。
決定的といえる相違は、機能性と特定性でであろう。
囲碁は全て碁石が形や大きさも同じであるのに対して、将棋はそれぞれの駒が特定
の役割を果たし、形態も一目瞭然である。
何より、碁石は一旦おくと動かせないが将棋の駒は随時動き回る。
相手の駒活用が活用できるのは、将棋だけの大きな特色である。
この点、碁石が丸いのに、駒が五角形なのは駒が取ったり取られたりするの、五角形
の向きで彼我の識別をするためだと言われる。
B性格の反映する盤面
囲碁だけに限らないが、勝負事(ギャンブル)は当人の性格が反映するという。
虚飾をはぎとって、本質的な姿勢が赤裸々になるためであろうか。
逆に、本人自身にとっても自己認識の契機にもなりえる。
筆者も、いろいろいなタイプの人と対戦する際、事前にどのような展開になるか予想し
てみる。そうすると勝敗は別にして、だいたい予想どおりの展開になる。
逆に、筆者の碁風も固定化しつつある。
無理に変えようとしても、いつのまにか元の戦法に戻っていく。
何事でもそうだが、個性が露呈するのは当然といえるのではないか。
無理に矯正するのでなく、あるがままの盤面への投影がいいようにもかんじている。
2 深遠な勝負
囲碁は盤面が広い。接戦の場合は、当事者でも結末が不明である。
途中でしくじっても、意外と挽回の可能性がある。
当然、プロにはアマ高段者でもハンディ−がなければ歯が立たない。実力差は歴然と
しているのだが、一局の中には勝負どころがある。
勿論、持久力も必要であるが、勝負の岐路ともいえる転換点では「決断力」も要求さ
れる。アマチュアでは、最良の手を打つよりも悪手を打たない方がいい。
お互いに、張り合うような展開になった時に辛抱しうるかしかけるかといったような岐
路がある。
まさに、「勝負所」での争いである。
「読み」以外の気迫と勝負勘も含めた「人間性」のぶつかりあいという醍醐味がある。
3 碁敵との交流
囲碁は必ず対戦相手がいる。それも、決着がでる相手である。
ついつい、同じレベルの人と対戦しがちでおもしろい。
はじめての対戦相手の時は緊張する。
相手のレベルや相性が不明のため、不安感が増大する。
しかし、数十手進行すればおおよその技量が察っせられる。
時には、奇想天外な手を打ってみる。
そうすると応手にも個性がでてくる。
奇策は、あくまで便宜的な策である。
いわゆる、「手談」といわれる盤面をとうしてのコミュニケ−ションである。
相手の手によっても、会話しているようなものである。
時には激しく、あるいは柔軟に対応することで、盤面を通じてのまさに「対話」している
ような気持ちさえ体験できる。
4 大局観が養われる囲碁の世界
囲碁の効用は多い。その中でも特に実感するのは大局観である。
例えば、最初のうちはバラマキスタイルのように思えるだろう。
見た目は、碁盤の隅にバラまいているようである。
しかし、棋理(囲碁の道理)に合致している。つまり、将来の為の布石である。
「布石」は日常語にも使用されているが、直截的でなく将来をにらんでの手である。
また、目先の手だけにとらわれない。
時には部分的に損してでも、全体的には好影響するような手がある。
なかなか打てる手ではない。
将来を見とうしての手である。
それこそ、対局を見通しての決断となっててしまう。
つい局部的に見がちだが、前提には「冷静沈着」さがなければならない。
一局が大げさにいえば一つの人生模様のようなもので、迷いや決断といった面もあるが、
どう構築するかという大局観は「人生修養」にも役立っているものと確信している。
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E「私の趣味三部作」 (三作目・海外旅行)
「私の趣味三部作」
(三作目・海外旅行)
はじめに
海外旅行は非日常的な体験である。とてもインパクトのある体験となりえる。
ハプニングと感動の連続といった一面もある。
「百聞は一見にしかず」が海外旅行だ。
楽しみも多い。
観光・グルメ・買物等である。
それも、各国各様である。また、リピ−タ−として行っても新たな発見がある。
この拙稿は、まさに実体験に基づく紀行文風味の心情の吐露と思っている。
目 次
1 視界は世界へ
@文通相手との面会
A近場の外国へ
B見所のある国へ
2 非日常的な体験
@ツア−は楽しい
A現地・現場・現実の感動
B一生の思い出
3 多くの人との有意義な交流
4 人生の潤い
1 視界は世界へ
@文通相手との面会
海外旅行への願望は、ある日研修受講中に不意にわき起こった。
当時の文通相手に会いに行きたい欲求が、もたげてきた。
海外旅行への羨望が以前からあった。
衝動的にシンガポ−ル旅行を決めた。
理由は、当時の文通相手に会いたいとの一念であった。
「初体験」は戸惑いと、新鮮な感動であった。
最初のホテルの宿泊は、なかなか寝付けない。誰でも最初の異国の地では落ち着か
ないのではないだろうか。
文通相手とは、すんなりと会えなかった。 彼女は姉と二人づれできた。
不十分でも話せて市内案内をしてくれたのは、忘れられない。三か国語(英語・マレー
語・中国系なので中国語も堪能)駆使できるのに感服した。その後は、クリスマスカード
−ドのやりとりだけになったが、まさに私にとって画期的な経験であった。
A近場の外国へ
それからは、東南アジアに行った。
理由は簡単だ。安価で日数的にも行きやすかったからである。
二回目以降もずっと、パック旅行である。 香港はよい印象がない。それ以外は、再度
行きたい気持ちになった。
日常生活を離れた「異次元の世界」が感得できる。
最近は経済的にも近場の国であれば、むしろ国内旅行よりも安い。
また、アジア圏では「箸と漢字」の文化圏なので日本とは共通項がある。
中国に行った時に、指導者の追悼の見出しが「大光輝的一生」と書いてあった。
名所・旧跡の観光だけでなく、いわゆる「カルチャーショック」も受ける。
最初はチップにも違和感があった。
物価も安く買物もその点では有利である。 しかし、段々アジアでは飽き足らなくなっ
てきた。
B見所のある国へ
それからは大自然や美術館など、特定の目的にしぼって海外へ行く事にした。
海外旅行の神髄が、徐々にわかってきた。 事前の知識がないほうが、かえってお
もしろい。
名所・旧跡などの観光以外にも興味が拡がってきた。ずばり、美術鑑賞である。
それも、「世界遺産級」の建築物で、伝統や規模を誇っているものである。
著名な作品は審美眼に訴えるものがあるが、芸術品は鑑賞する側に製作者の息吹
が伝わる。それも、収納している建築物全体の雰囲気と調和して感動を醸し出してい
る。
名門ホテル以上に、荘重な建物のせいかもしれない。
昔は宮殿であった。例えば、エルミタージュとか紫禁城などは、壮麗さという迫力で
観る者にせまってくる。本物のもつ説得力がそこにある。
2 非日常的な体験
@ツア−は楽しい
団体旅行ではマナーを守っていれば、気楽である。
個人が手配するとなると大変になる。
さらに、オプションを追加できる。
勿論、定番コ−スであきたらない人には不満だろう。
しかし、海外初心者にとっては「定番コース」の枠内でこそ安心して遊べる。
それに、気のあった同行者との交流も楽しみのひとつだ。
海外旅行では、言葉の障壁と共に「常識」の相違がある。日本での常識が通用する
とは限らない。
特に、「安全と水」では見方が大いに異なる。
その点旅行会社のツアーでは、ある程度の情報提供があり、ポイントを押さえる事に
よって快適な旅行が可能だ。
手間を省くだけでなく、経済的にも個人手配と比較すると割高ではないはずだ。
何より、いざという時の相談相手になってくれるのがパッケージツア−の強みだろう。
A現地・現場・現実の感動
学校や書物・テレビ等で得た知識の上をもって「現地」を訪問すると、現実の迫力を
感じてしまう。
ここがあの場面かと、身震いするような感動を覚える。
とはいえ、予備知識がなくても「本物の迫力」でせまってくる。
観光地だけでなく、素朴なよさもある。
まさに、感動の旅と心底思ってしまう。
書物や映像と異なり、現場での臨場感は体験した者が味あえる特権である。
単に、物見遊山で通過していくのではもったいない。
「今、ここに」という現実感も忘れてしまいそうな感激を得る事こそ海外旅行の真骨頂
とも思う。
B一生の思い出
行く前の期待や現地の本物の感動だけでなく、思い出としても海外旅行は素晴らしい。
何より、心に刻みこまれる。
仕事を遂行するうえでも、励みになる。
記憶だけでなく、写真や小物類もよい記念品だ。
旅先の出来事も忘れがたい。特に、親切にされれば一層である。
最初のうちは、帰国後は何も整理しなかった。
しかし、最近は一つのファイルに資料をまとめるようにしている。
また、海外旅行は話題提供にもなりえる。 なにより、記憶に刻み込まれる「無形の
財産」とも思ってしまう。
3 多くの人との有意義な交流
海外旅行はツア−同行者だけでなく、外国の人とも接点ができる。
それも、日常ではなかなか巡り合わない人達である。
まず、添乗員や現地ガイドといったプロと一緒になる。
気のあった同行者とも一緒になれる。
現地の人とのさりげないふれあいもある。 勿論、現地のサービス業の人との接点が
多い。
当然「言葉の障壁」があるが、雰囲気なりボデーランゲィジで何となく大意はのみ込
める。
まさに、非日常的接触とも言える。
4 人生の潤い
趣味としても、海外旅行は奥が深い。
大げさにいえば、比較文化論まで言及できよう。
さらに、行く先によっては様相がまったく異なる。
国内旅行とは、全く違う体験もできる。
行く前のわくわくする期待、旅行中の出来事、そして楽しい思い出と三段階の楽しみ
方ができる。
また、啓発される面も大変多い。
一面では、「研修旅行」とさえ言える。
オーロラから南国のビーチまで様々な楽しみ方が地理の面からできるだけでない。
カジノや射撃といった、日本では「ご法度」な事柄も海外では容易に体験できる。
まさに、「未知の世界探訪」こそはこのうえない刺激であり、生きていくうえでの潤い
と実感している。
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はじめに
行きつけの店を持つのは、「居心地」がよいからである。しかし、気に入ったのを見
つけるのは難しい。しかし、私の性格から、ついつい常連になってしまう。
行き安さも「名店」の必須条件と思っている。
普通は、そういう店は「秘密の隠れ家」としてしまいたくなるかもしれない。
けれども、安息の店としての思い出や語ることはとても楽しい。
まさに、心のなごむ一時である。
癒し産業の一貫かもしれない。
ここでは、実感的「名店」評論として展開したい。
目 次
1 心和む店のコンセプト
@出会いとしての情報収拾
A第一印象が肝心
B常連になってしまう店
2 実際の店
3 海外にもあるやすらぎ店
4 顧客満足の要因
1 心和む店のコンセプト
@出会いとしての情報収拾
まず把握しない事には話にならない。いわゆる「出会い、触れ合い」である。
私の場合は偶然性の高い「飛び込み」と情報収集の結果の必然性という二つの
出会いがある。
飛込みは運の要素が強い。しかし、情報誌は丹念に読んでいると「掘出し記事」
を見つける事がある。
しかし、やはり「相性」が一番である。
また、クチコミ情報なども貴重な情報源といえる。
細部にまで実態がわかる点で、重視すべきである。
A 第一印象が肝心
店にはいった時に、独特の雰囲気がある。 表現すれば、心が満たされるような
気持ちであろうか。
その上、サビ−スがよければ言うことがない。
できれば、すいているときが好ましい。
じっくり観察でき、いろいろ話ができるからである。
やはり「やすらぎ」が第一であろうか。
自然と長居してしまう店こそ、「隠れ家」にしたい誘因だろう。
B常連になってしまう店
店にはいってから、自然と心が和むとついつい足を運んでしまう。
勿論、一回だけの場合もある。
しかし、店側からも顔を覚えられると嬉しくなる。
当然、好みも把握されている。
まさに、常連の特権であろう。
店側との「阿吽の呼吸」が醸成されるせいであろうか。
ついつい足が向いてしまう。
店側でも常連は「固定客」として歓迎される。
客としての満足と店側の収益が一致してこそ、永続的な関係となりえるのでは
ないか。
2 実際の店
主に、飲食店が多い。当然、サ−ビス業である。
顔役になり、くつろいでしまう。
まず、喫茶店がある。
わたしの場合は、一人でブラブラ入ってしまう事が多い。
まさに「くつろげる」雰囲気が気に入ってしまう。それに、特色があればもっと楽し
いはずだ。
飲み屋も気に入った店にぶらりとはいる店が多い。
それに、相性のある従業員との店は「マン−ツ−マン」の関係になってしまう。
意外と「穴場」が銭湯や健康ランドだ。
まさに心身のリラックスと「孤高の時間」が堪能できる。
要は「広く、そしてなるべく多く」だと思う。
3 海外にもあるやすらぎ店
ツア−旅行でいくと、接客態度がいい店がある。多くは、いわゆる定番コ−スである。
その中でも、又行きたく店がある。
しかし、なかなかそうはいかない。
時間や金の面で制約がある。その前に、海外に再びいかなければならないからだ。
そこでも、キ−ポイントは人との交流だ。 それと「付加価値」があれば、それが集
客力になっている。
それには、多分に運の要素が大きいような気がする。
つまり、偶発的な出会いである。
逆に、情報を仕入れてその通りの店に出会った時の喜びはまさに感動ものである。
4 顧客満足の要因
顧客満足という経営学的な判断手法があるる。あくまで、(サ−ビスの)受手が満
足するかという指標で考える方策である。
その手法で考えるなら、行きつけの店は最大満足だともいえよう。
行きつけに求めるのは、安息である。
それに、気に入ったサ−ビスが享受できれば言うことがない。
当然、それに見合う出費も惜しくない。そんな気持ちにさせるのが、「隠れ家的名
店」の要諦と考える。
習慣性にさせる何かがある。
勿論、店側の経営努力があろう。
けれども、そのような良さを見抜く眼力が利用する側にも求められている。
まさに、幸せも名店も自ら探すものかもしれない。
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「我が職業的回想」
はじめに
人の存在意義は、ひとつには職業的な社会貢献があろう。また、職業を通じて「生
活の糧」以外にも得ることが多い。
幸い多少の体験ができた。
地域づきあいや、趣味仲間と違って自分を全面的に曝け出さだす場合でもある。
筆者にとっては、単なる「時間の経過」としての職場経験でなく貴重な経験として一
度記録をしたいと秘かに思っていた。
失敗談もあるが、苦楽を共にした気のあう同僚は忘れられない。
ここでは、あくまで筆者の体験に基づいて述べてみたい。
目 次
1 人生経験としての仕事
@机上の学問ではわからない仕事
A苦労やいろいろな人とのふれあい
B役にたつ多様な体験
2 アルバイト体験も含む職業遍歴
3 職業的体験も貴重な糧
4 存在意義としの職業
1 人生経験としての仕事
@机上の学問ではわからない仕事
仕事の内実は、まさに体験してみないとわからない。業務内容だけでなく、対人関
係や顧客対象等はなかなか実相は外からは分からりずらい。
逆に、思わぬ内実がわかってくる。
苦労やストレスと引きかえの、得難い経験である。
現実社会は、必ずしもキレイ事や額面どおりに動いていない。
それに、組織体としての人間集団の難しさもある。
逆に、円滑なチ−ムワ−クで想像以上の成果も果たす。
まさに、「実学」の習得の場でもある。
A苦労やいろいろな人とのふれあい
仕事はいいことばかりではない。
まず、自分の意にそわない事もしなければならない。対人関係でも、いい人ばかり
とは限らない。
業務内容も思いどうりにいかない。
まして、上司や同僚は選べない。
こう羅列すると「職場」=「苦役の場」のように規定しているよだ。
いわゆる、「たこ部屋」的な苦難続きの場合も経験した。
しかし、長時間労働よりも対人関係の苦労のほうがきつい。「嫌悪感」がなかなか払
拭できないからである。まさに試練の場となってくる。
一方では、抜群の相性の人とも巡り合える機会もある。
仕事の中味は事前にある程度予期できるが、本当の意味の苦労や対人関係は渦
中に入ってみないと分からない難しさや面白みがあるのではないか。
B役にたつ多様な体験
何ごともいい面とそうでない面の両面が紙のように一対である。
そこで、いわゆる「プラス思考」で考えていくことが必要である。
例えば、加重と思える仕事でも見方を変えればやりがいと多くの情報収集がえられ
る。 いわゆる、「閑職」であっても「充電期」と考えれば過ごし方が違う。
良くない人も「反面教師」とすれば、いくら余裕をもって対処できる。
職場は、一面では「人間展覧会」とでも表現できるほど多彩な集まりと言える。
それに、本性が露呈してしまうほどの濃密な付き合いも必要になってくる。
また、職場を通じて技能だけでなく対人折衝の術や有用な処世術などの習得も副産
物として得ることができる。
まさに、「人生修業の場」と考えられる。
2 アルバイト体験も含む職業遍歴
一度、雑学ノ−トにアルバイト含む職業体験を箇条書きにした。
二十数類になっていた。最初の労働は、忘れられない。
ゴルフ場の球拾いであった。
何事も初めての出来事は、インパクトがある。当時は、十五才の時であった。
屈んだ姿勢でのゴルフ球拾いは、腰にこたえてくる。
「仲違い」も目撃した。
一番の収穫は、金銭を得るのがいかに大変かと実感した事である。
初めて「時給」の重みも噛み締めた。
それから、ガソリンスタンド・喫茶店のボ−イ等1〜2週間位のバイトを8種類位体
験できた。
3 職業的体験も貴重な糧
金銭という反対給付を得るだけでなく、体験として身にしみる経験もできる。
机上の勉学では、とうてい分かり得ない「実感」という無形の蓄積ができる。
知識・経験・コネ・技能等が自然と体得できる。
処世術にも精通してくる。
何より「本音」の世界である。
高尚な表現をすれば、自己実現の場でもある。
本音もいえば、失職の不安も払拭できえなかった。
また、対人関係の良否や上司の人格にも大きく左右されるものとも感じた。
さらに、研修の機会もある。
プラス思考で考えれば、職業を通じてのあらゆる体験こそ得難いものと知恵に昇
華すべきである。
4 存在意義としの職業
職業は反社会的でないものであるならば、社会的意義がある。
仕事で自分がきたえられる。
また、社会貢献もしている。
自分自身の存在意義も確認できる。
まさに、自己確立の場と言い換える事も可能だろう。
それに、職場は一面では「セコンドハウス」という側面も持っている。
つまり、機能的な「居住性」も確保できうる。
さらに、職場の人と「支えられ支えあう」関係は円滑にゆけば全人格的なつきあいが
できる。
その上、収入源ともなればまさに本気で取り組まなくてはならない。
よく言われる「取り組む姿勢=やる気」が鮮明に分かる。
また、職場風土になじんでベテランになるとそこそこ「安住の地」とさえ感じてしまう
事もでてくる場面もある。
肯定的に考え、苦労も「人生修業の場」ととらえれば職場はまさに自己実現の一旦
にもつながる。
まさに、存在意義の発揮として職業は、社会貢献の場としても意味があり自己確認
の場でもある。
平たく言えば、自分の存在意義の証として職業はその表現とでもいえるのではない
か。
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「依存症も楽しい」
はじめに
人はひとりでは生きられない。その意味することはいろいろだろう。その中でも依存
している事は生きる上で意味がある。
いわゆる薬物依存になってしまう訳にはいかないが、精神的背骨のような役割を果
たすものがある。
いかに、うまく共存していくか。逆に、生きる上で利用していくかであろう。
ここでは、個人的な思いを吐露していきたい。
目 次
1 我が依存的人生
@日常の中での依存
A習慣性への誘惑
B生きる上に不可欠な快楽依存
2 病理的依存との相違
3 人は何故に「はまる」のか
4 楽しい依存
1 我が依存的人生
@日常の中での依存
朝起きるとすぐ「うがい薬」を使用する。 それから降下剤(高血圧対策)を服用して
いる。そして、コ−ヒ−を午前中にがぶ飲みする。カェイン入りの方である。
そして、相性あう人と交流ができれば、スム−ズに仕事ができる。
よくいわれる、「マニュアル人間」も一種のマニュアル依存といえる。実は、筆者もそ
の一人である。
単純大量反復業務は大好きだが、不定期な業務になるといきおい時間がかかる。
仕事以外にも、「生活設計」マニュアルの信奉者であるので予期せぬ事には弱い。
さらに、「活字中毒」を自認している。
筆者は、まさに依存体質に異存はない。
A習慣性への誘惑
依存とは、正確には習慣的依存である。
自律的に、コントロ−ルができない事である。
病的な状態は、ひたすら依拠して悪影響まで発生する。
ささやかだが、泊込みボランィアをした時は「麻薬」使用後のような感慨があった。
つまり甘美な誘惑と、気が付くと体がボロボロということである。
「体はクタクタ、心は充実」とも表現できよう。
つまり、快楽的でコントロ−ル不能な習慣性とでも表現できよう。
誘因は薬物・ギヤンブル・アルコ−ル等、様々だが断ちがたい誘惑という点では共
通している。
B生きる上に不可欠な快楽依存
食物と同様に快楽も社会的生活に不可欠である。
謹厳実直は、はけ口がなければストレスがたまる。
健全な依存は、むしろ望ましい。
心身にリフテッシュ効果がある。
うまく付き合えるかという事に帰着するかもしれない。
禁欲主義では、完全主義と一緒で「心の弾力」がないため一旦破綻すると脆弱で
ある。 車のハンドルの「あそび」のような、緩衝部分が必要となってくる。
依存しながらも、社会的生活を継続できるのが望ましい。
2 病理的依存との相違
社会的病理といったものと、依存性は境界線があるはずである。
その一線は、自己のコントロ−ルで自制できる事であう。
依存の結果、破綻するようではまさに自滅への道である。
ところが、のめり込んでしまうのはどういうことだろうか。
習慣性への岐路である。
煎じ詰めれば、自己制御が可能かどうかであろう。
いわゆる「禁断症状」にも苦しめられる。 また、代替できるものかどうかも岐路で
あろう。
程よく切り上げられてこそ、健全な依存であろう。
3 人は何故に「はまる」のか
医学的にも、中毒性には理由がある。
脳のメカニズムに起因するものとおもわれる。
ここでは、専門的な事には深く言及しないが概観してみよう。
医学的には、脳のメカニズムに関係してくるらしい。
脳内物質の働きが影響している。
どうも神経経路の中で「快楽物質」が影響しているようだ。
それが、段々刺激に対して麻痺してより強い刺激を求めざるをえなくなる。
このような連鎖が断ち切れないところに「はまる」現象が生じる。
4 楽しい依存
依存は何も嫌悪するものではない。きちんと共存していければ、円滑な生活に有効
となりえるはずだ。
「有効活用」が最善の方法とも考える。
それでは、どうすればいいか。
依存しつつも、自己管理を最後まで完遂できるかという一点だろう。
逆に、依存効果とでもいうべきプラスの面もある。
積極的な取り組みの後押しとも言える。
うまく「共存」してこそ、真の意味の依存関係が完結する。
依存を必ずしも「罪悪視」せず、適度に楽しんでこそ有効である。
いい意味で、気楽な気持ちを保持する補完剤として「依存」は生きるうえで栄養素の
一つかもしれない。
まさに、楽しく依存することができれば、この世は楽園になってくる。
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「快感的読書の感想」
はじめに
読書は私にとって至上の喜びである。むしろ活字を読むのに快感があるといった方
がいい。
最近は一読してから重点的に拾読みしているが、以前は乱読にちかい。
社会人になってからは、分野がせばまってきた。
けれども、教養として全般的に読むように心掛けている。
文学作品にも、久々に読み返してみたりしている。
ここでは、体系的でないアトランダムな読書論を展開していく。
目 次
1 我が「活字中毒」的人生
@まず新聞から
A手軽なパンフレット・雑誌
B本格的な書籍
2 段階的な変化の読書感性
3 感銘する作者や作品
4 知的滋養としての読書
1 我が「活字中毒」的人生
@まず新聞から
朝、満員電車の中でもなるべく新聞を読もうとしている。朝食よりもまず新聞といった
調子だ。
それも、全国紙だけでなくスポ−ツ紙も一緒に読む。
それから、ファ−ストフ−ドにはいり日経を走り読みする。
そして、一日が始まる。
勿論、テレビなども見るが新聞の「一覧性」や膨大な情報量が勝る。
勿論、雑誌や週刊誌類も大好きである。
喫茶店では、ほとんど置いてある新聞・雑誌類を読破する。
手紙類が届いていると、大変嬉しい。
私にとって読書は、食事と同義語である。
A手軽なパンフレット・雑誌
ビィジュアルな雑誌についつい手をだしてしまう。
また、週刊誌等はコンビニでついつい立ち読みしてしまう。
特集でも秀逸なものが多い。特に、実用記事には目がない。
旅行のパンフレットも大好きである。
経済的で気軽な読書は、本屋やコンビニでの雑誌類の「立ち読み」がある。
単に、「読み捨て」の記事だけでなく保存版の力作もある。
必要な部分は少ないが、「生情報」として貴重なものも多い。
まさに、コンビニ店のような役割をしている。
B本格的な書籍
重厚な厚さのある本は、率直に言ってとっつきにくい。
単位修得といった切羽つまった状況で「経済学」等の専門書を一応熟読した事はあ
る。 さすがに、時間だけでなく「脳力」にも読み応えがある。
こういう本は、読み捨ては知識修得にならない。
熟読吟味という、しんどい読書である。
著者の知性との格闘とも言える。
一読ではなかなか意味が理解できない。
しかし、まさにスロ−テンポで肉薄するしかない。牛歩の歩みである。
そして、いつのまにか真髄が浸透してくるような気がする。まるで座禅をくんで苦吟し
ての「悟り」のようである。
2 段階的な変化の読書感性
同じ名作を読むにしても、十代と五十代では感想が異なる。特に、文学においては、
感受性が大幅に相違してくる事に自分でも分かる。
率直にいって、「純粋な感受性」は青春時代であろう。
社会人になってからは、どうしても清濁あわせなくてはいけない場面もでてくる。
いわゆる「裏読み」もしてしまうし、行間を読む事もある。
作者が何才の時の作品かにも関心がいく。 表面的な展開よりも、作中の心理描写
にも想いをはせる。
まさに、作品を通しての作者との「バトル」になってくる。
逆に言えば、読解力以外の社会考察を加えた広範な理解が中高年以上は得られる
かもしれない。
3 感銘する作者や作品
気に入った作者や作品は個人的嗜好によって大きく左右される。ある意味では、個性
の発露かもしれない。
筆者は、純文学といわれるものが苦手である。正確にいえば、理解不能の側面がある。
けれども、「相性がよい」作家に巡り合うとのめり込んでしまう。
もう惰性に近い読み方になる。
筆者の場合は、その傾向が強い。
高校生の時は、森鴎外であった。
漢文調や横文字の素養にはついていけなかった。しかし、難解な表現の中に率直な
心情が読み取れた。
まさに心の琴線に触れた想いがした。
また、何回も読み返したくなるのが名作の魅力であろう。
日本だけでなく、世界の名作と言われるものをまず一読して、自分にマッチしたもの
を選ぶのも一つの方法だろう。
4 知的滋養としての読書
読書から得られるものは大変多い。
まず、未知の世界や体験があたかも自分の世界にように「仮想」で紙上で体験できる。
また、作者の経験・知識・知恵・考え方などが同一化できる。
「別世界」に一気に突入できる。
教養の深化でもある。
他者の知識・知恵の「借用」の手段とも言えよう。
また、知的好奇心もおおいに刺激される。 まさに「心の栄養」になる。
しかし、一定水準以上の本であるならば、「読み手」の読解力が試される。
スポ−ツ選手は練習で鍛えるが、読書家は多読だけでない。教養の深化を加味して
「読捨て」でなく毎回の読書と真剣勝負してこそ知的栄養素となる。
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はじめに
健康はまさに宝である。つまり、「(健康維持のため)予防は治療に勝る。」という事
には誰もが納得するだろう。
健康体は、逆説的に言えば健康に無頓着でいられるはずである。
しかし、加齢と共に「無病息災」ではいられなくなるのが一般的である。
そこで、あえて立ち向かうか仲良くするかである。
むしろ、「共存」の方が現実的である。
ここでは、医療的な面でなく日常生活のあり方を展開していく。
目 次
1 不健康な半生
@質実剛健とは無縁の少年期
Aスポ−ツ嫌いの青春
B体調不良からめざめた健康管理
2 健康法としての運動
3 ジョギングは容易かつ深遠
4 自律的生活者としての健康法
1 不健康な半生
@質実剛健とは無縁の少年期
よく風邪をひき、蓄膿症だった。一時、悪寒を覚えて一貫の終わりかとも感じた時
もある。
「盲腸」が痛みだして、何とか沈痛剤で治った。虫歯にも散々悩まされた。
長生きは、絶望的かとさえ考えこんでしまった。
それに、「引きこもり」気味だった。
それでも、無理しないでなんとか生きてこられた。
しかし、体力や健康には自信がもてなかった。
Aスポ−ツ嫌いの青春
小・中学校と運動が苦手だった。保育園の時にスキップを覚えて有頂天になった記
憶があるが、まさに「運動音痴」といってよい。
当然、運動会の成績は散々だった。
体育は、苦手で苦痛さえ感じていた。
それでも、中一のときに「陸上部」に入部した。新入生なので、そんなにきつくはな
かったが一年でやめてしまった。
高校の時は、一年生の「柔道」・二年生の「器械体操」・三年生の「サッカ−」等本
格的な運動ができた。
特に、柔道の後の「疲労感」には肉体面でまいってしまったが、心地よい爽快感も
あった。
B体調不良からめざめた健康管理
社会人になってから、スポ−ツを意識的に行なうようになった。
職場対抗の卓球・野球・バレ−など消極的ながら参加した。
社交ダンスにも挑戦した。
それが一念発起して、剣道に挑んだ。
まさに、偶然の出会いだった。
剣道部の先輩の指導がよかったので、いきなりきつくはなかった。
半年間は、ひたすら素振りだけであった。 集団での稽古なので、要領を覚えると
「小休止」が出来るようになった。
定期的に体をうごかすと風邪がひきにくくなった。
積極的に体調管理を行い、自分の限界をわきまえるようになると、自分なりに「丈
夫で長持ち」の秘訣が自ずとわかってくる。
2 健康法としての運動
楽しく健康的に寄与する方法がある。自分にあったもので無理なくできるような運
動である。
何事も、継続してこそ成果がでてくる。
例えば、エレベ−タに乗らずに階段使用をするといったようなものである。
完璧主義よりも「カロ−ラ主義」の方が長つづきする。つまり、何事もほどほどとい
う主義である。
平たく言えば「肩の力を抜く」事だ。
一番肝心なのは、継続することである。
精神的にも自分を追い詰めないようにしたい。
つまり、心身の悲鳴に逆らわないようにする事である。
ジョギングでも、走行中に話が出来るくらいの余裕でおこなえば無理がない。
3 ジョギングは容易かつ深遠
歩ける人なら、誰でもできるスポ−ツがある。まず散歩、そしてジョギングだ。
これほど手軽なスポ−ツはない。単純すぎて軽視するかもしれない。
しかし、単純にみえるものほど奥が深い。 まず、自己調整が可能といえる点で
目標設定も柔軟にできる。
手軽にできる点も大きな利点である。何より、極めて経済的である。
通勤や、仕事の合間に実行できる。
どうも一定程度の度合いを越えると、快楽物質の影響で習慣性に陥る指摘もある。
目標設定して自己満足を得ることも、走行距離やタイムなどの指標で任意に変更
して手軽に獲得できる。
本格的に競うのであれば、大会に参加して他者との争いもできる。
単純に見えるものほど、深遠だと感じてうのはジョギングも例外ではない。
4 自律的生活者としての健康法
直立二足歩行が現代人も必要である。すなわち、身体的な意味も含めた生活面の
自立と経済面の自立である。
その中でも、異口同音に必要と答えるのが「健康」である。
では健康状態とはどのような事であろうか。
なにも、健康診断で全て異常がないという事であろうか。
むしろ、そこそこ不調でもなんとか日常生活に支障なくできる事だろう。
逆に、健康体は(病気対策を知らないという意味で)不健康という考え方もある。
まず、体調や体質等の「己れ自身」を知ることである。
そして、気持ちの上で「完璧主義者」にならない事もメンタルヘルスの面で大切とな
ってくる。
こう言うと誤解されるかもしれないが、いわゆる「人間の幅」を健康面でも適用するわ
けである。
健康が自信の源になり、自律生活の土台になれば「幸福生活」のまさに出発点にた
てると言える。
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はじめに
退職後が視野にはいってきた。健康でそこそこの経済的自立という「二足歩行」がで
きていれば、自由時間はたっぷりあるはずなので『黄金時代』といえるのではあるまい
か。 「毎日が日曜日」というような、戸惑いの日々にしいてはいけないと思いながらも
忸怩たる思いが払拭できないとつぶやくような気がする。
そういう事のないように、事前のプランと心構えをしっかりしておくのが大事となって
くる。
今回の拙稿では、自分自身のためにも書いた面がある。
目 次
1 多様化時代の到達
@オ−ダ−メ−ドの時代
A助走期間が必要
B開花すべき時代
2 自分で切り開ける退職後のために
3 達人に学ぶ退職後の世界
4 「黄金時代」が形成できる世代
1 多様化時代の到達
@オ−ダ−メ−ドの時代
マニュアル世代というのは若い世代の話にすべきである。少なくとも、多くの人生
経験を積んだ熟年世代は、独創的な生活設計を考える事ができるはずだ。
そうでなければ、生きてきた半生を反省しなくてはならない。
しかし、それには用意周到に、十分に思慮していく必要がある。
「でたとこ勝負」では、分別世代のやることではない。
十分な思索と準備があれば、てずくりの計画ができるはずだ。
個性的で多彩なものこそ、今後は求めていくものと確信する。
A助走期間が必要
何事も、準備万端であれば理想的である。
その為には、観念的でなく具体的に準備をしておけば悔いはない。
しかし、時間とエネルギ−が必要である。 それ以前に「設計図」も描かないとい
けない。
暗やみの中に突っ走るわけにはいかない。 詳細な設計図が望ましいが、概略で
も役立つ。
その為、実効的な対策を事前に進めておくのは必然である。
また、いわゆる「人・物・金」の側面での布石も肝要となろう。
ポイントは、いかに周到に対策がたてられるかであろう。
B開花すべき時代
総決算としての後半生ができれば、充実した日々でありえる。
自分での「創世記」を描けるものである。 能動的に生きる事が可能である。
まさに自分の思いが「やり放題」だ。
夢は総花的でも良いと思う。
但し、現実的な制約があるので「夢に期限」を持つことが切実である。
何をやりたいかと共に、いかにすべきかが重要になってくる。
要は、夢の着実な結実だと考える。
2 自分で切り開ける退職後のために
目移りするくらいやりたい事がある。そのような退職後こそ「生きがい」獲得の早道
だろう。
そのため、必要な要件がいる。
実現可能性の担保である。
大前提として、心身の充実があげられる。 次に、自由時間の確保である。
そして、金銭面でも手当てもわすれてはならない。
まさに、自力での開拓となっってくる。
実現性の担保とも言える。
そして、物心両面での準備をすれば後は「決断と実行」となってくる。
要は、明確な意識の差で結果は大きく左右されるものと考える。
3 達人に学ぶ退職後の世界
まず達人の模倣が手っ取りばやい。
生き延びれば誰もが経験する老後であるが、考えられる事は先人が大抵実践し
ている。 基本は不変である。
そして、特に教訓を重視すべきであろう。 マスコミを通じての方法もあるが、「生
情報」=体験談も貴重な情報源だ。
なるべく多く情報を収集して、自分にあった方策を吸収すべきだ。
そして、背伸びをしない。
本来は、各人各様の後半人生なので一面では独自の生活設計が描いていいもの
である。 しかし、余程の達成意欲がないと困惑するのが実情ではないだろうか。
まず、真似るのが第一歩でもいいのではないだろうか。
4 「黄金時代」が形成できる世代
青春と青春時代は、区分できるかもしれない。つまり、人生の発育途上の一時期が
「青春時代」とすれば、青春は自覚的「はつらつ期」と思われる。要は、気持ちの上の
「若さ」である。
また、真の意味の自己実現に挑戦できる。 よく、若いうちは「健康」があって「(比較
的)自由時間」があり「金」がない。
社会人は、「健康」があって「金」もあり「自由時間」が少ない。
老後は、「自由時間」が普通はたっぷりあり、そこそこ「金」があって「健康」でさえあ
れば三拍子そろう。
人生経験も豊かで、見方によっては絶頂期とさえ言える。
気分的にも、「しがらみからの脱却」をしていれば開放的になれるはずである。
まさに、真の自分の時代到来とさえ言えよう。
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「私の体験的な国際化」
はじめに
地球が狭くなったとはよく言われる。筆者自身も国際化の拙い体験から感じている。
それも、公私にわたっての体験を語っていければと機会をと考えていた。
国際化には、「見えない障壁」というべき問題が存在する。典型的な例が、言語や
宗教的文化的な相違であったりする。
逆に考えれば、新鮮な相違である。
今回は、あくまで自分の体験にもとずいたもであるから、限定的で主観的という指
摘がでてくるのは当然であろう。
しかし、タイトルどおり「自己体験」の国際化を展開していくつもりである。
目 次
1 体験的な国際化
@個人的なレベルでの国際化
A仕事でも押し寄せる国際化
Bインパクトのある海外視察
2 海外旅行だけでない異文化体験
3 外国人とのコミュニケ−ションは有意義
4 視野の立体的拡大になる国際化
1 個人のレベルでも国際化
@体験的な国際化
中学のころに海外の文通相手という事で、アメリカの人と数通のやりとりで終わっ
てしまったが、記憶に残る最初のコンタクトだった。
中学英語を習い、最初のうちは外国語の興味もあったが自己の理解力の限界を痛
感してしまった。
テレビや映画で、外国生活への憧れもあった。まだ当時は、ヨ−ロッパ旅行をして
きた高校の同級生が、周囲から羨望の眼差しでみられている時代であった。
A仕事でも押し寄せる国際化
勤務先の東京都荒川区役所に毎年フランスから研修留学を受け入れてきた。
筆者の勤務先は地方自治体なので、外国籍の人も含めた住民が対象である。
仕事でも、外国人との接点が意外とある。 役所の住民登録は、外国人も扱う。
図書館では、在日朝鮮人向けのハングル語の図書が置いてある。
パンフレットにも、複数の外国語で記述しているのもある。
海外姉妹都市も締結している。
Bインパクトのある海外視察
1991年8月に「まちづくり海外視察」に行く機会ができた。
ヨ−ロッパの三ヶ国である。
JTB主催の公務員向けツア−である。
総勢十三名であった。
行く先は、ロンドン・スイス・フランスの三ヶ国である。
最初は、十二時間ぐらいかかりロンドンについた。そこでは、倉庫を改造した事務室を
視察した。
スイスでは、温泉のある保養所に視察できた。
次の訪問国フランスでは、地域振興の街として、ストラスブ−ルとパリに行った。
再開発や地域振興産業等の説明は、観光都市の実情の一旦をいくらか知った思い
であった。開園前の「ヨ−ロデズニィランド」のデモンストレ−ションも楽しかった。
最大の収穫は、同行者と帰国後も親しくなった事である。
2 海外旅行だけでない異文化体験
ボ−ダ−レス時代が到達している。
人・物・金等が国境を越えて行き来している。特に、個人レベルでも電子機器の発達
によって国際的な係わりが可能となっている。 外国人も、街角でも見られるように違和
感がなくなった。
異国料理も大抵の国のものは食べられる。 個人レベルで国際的通信も可能になった。
まさに、グロ−バル化である。
語学教室では、母国語を教える外国人教師に直接教わる事ができる。
海外通信も、市民レベルで可能となってきたのは一層の異文化交流が加速される。
まさに「文化の壁」が崩壊しつつある。
3 外国人とのコミュニケ−ションは有意義
一度、英会話学校に短期間、通った事がある。日本語ができないアメリカ人講師であり、
英語のみのコミュニケ−ションであった。 意思疎通は、容易でない。
手振りなどの、「ボディ・ランゲイジ」で補っていた。
海外旅行では、言葉の障壁がまずたちはだかるが、雰囲気で大意はそれとなくわかる。
とにかく、「度胸」である。
もちろん、細部が分からずだいぶ誤解が生じる。
むしろ、外国人の方が固定観念がないだけ斬新な見方で啓発され発想の転換に有益
である。
4 視野の立体的拡大になる国際化
国際化というと、何もアカデミックの世界だれではない。視野の拡大につながり、発想
が豊かになる。
また、自国にいては自分自身の姿が見えにくい。しかし、外国との対比は鏡のよう鮮
明に見えてくる。
大きな刺激である。
発想や文化の相違に気づかされる。
まさに「カルチャ−ショック」の連続だ。 世界は雄大と感得出来ると言い換える事が
適切かもしれない。
まさに、桁違いの驚きと啓発になってくる。
新鮮で、気持ちが気宇壮大になるのが国際交流の成果だと確信する。
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「流行歌の世界」
はじめに
「流行らせ歌」とも言われている流行歌は、単に商業ペ−スにのってのだけでなく、
文学性や「人生の応援歌」の役割にも注目していきたいと考えていた。
通俗的な歌詞も多いが、自然と口づさむほど心の琴線に触れるのはどういう事で
あろうか。一度、自分なりの解析を試みたいのがこの拙稿の動機である。
短い文章に、凝縮した平易な文学的表現こそ歌詞の真骨頂と感得しえる。
凝縮した表現の歌詞の世界として位置づける仰々しさでなく、極力平易に述べて
いければと切望する次第である。
短篇小説よりもミクロの文芸的舞台として展開できればと念願している。
目 次
1 流行歌小史
@まさに「歌は世につれ」
A時代反映の歌詞
B歌に刻みこまれる思い出
2 歌詞における集約表現の研究
@平易で親和性抜群の表現
A名歌にみる浸透性
Bメロデ−との相乗効果、サビの効果
3 自作の歌詞
「一人旅情」(演歌調)
4 生きていく上での潤いとしてのおもいだす歌詞
1 流行歌小史
@まさに「歌は世につれ」
世相はまさに歌にも反映しているのではないかとはよく言われる事である。
歌の連想は、時代反映と密接に関係している。故郷への郷愁と同様の感慨が
あるのではないか。
単純に一過性として廃れるものもあるが、時代のふるいにかけられて名歌が残る。
例えば、戦争中は軍歌が横溢するとか。逆に反戦歌の台頭などがある。
逆に、現在の裏返しの様相もありえる。
世相と共にが鉄則とは言い難いが、受け入れる人々の心理にも入り込める
要素も必要だろう。
時代背景に、微妙な振幅が避けられないのは歌も例外ではない。
A時代反映の歌詞
一節だけでも、特色があるという歌詞にふれあう事がある。その部分を聞いただけで、
ついその時代を思い出してしまうような独特のフレ−ズの事である。
それも、簡潔な表現である。
これは、その時代を的確に表現しえた濃縮的な表現なのであろう。
単に、説教口調でなく自然と心の中の記憶と重複してくるものなのであろうか。
いわゆる、フラッシュ・バックである。
「歌が世につれ」て、「世が歌により思い出される」。
そういう、インパクトのある歌詞こそ「不朽の名歌と呼ばれるだろう。
B歌に刻むこまれる思い出
ふと街角に歩いていると、聞こえてくる歌におもわず特定の時代を想起してしまう。
歌の記憶と、自分の記憶が重複しているせいかもしれない。
作詞家は、普遍的な広がりを意識しているはずだ。
そこで、マッチするような歌詞が生まれるのであろうか。
逆に、受手の方に感情移入した結果あろうか。
そうすると、自己の世界の中に歌詞のイメ−ジを消化してしまうのであろう。
いわゆる「記憶のすり込み」である。
流行していた時とちょうど一致したかのような時間的追想が、個々の歌詞に思い出
させる効果ある。
2 歌詞における集約表現の研究
@平易で親和性抜群の表現
童謡やフォ−クソングといったものは、大人にも親しみやすい。
また、歌謡曲でも難解な歌詞は少ない。
一度聞いただけでたいてい意味が分かる。 平易な歌詞は、一見易しく書き上げる
ようにみえる。
けれども、短篇の中に平易な表現を盛り込む難しさは、自作してみると痛感できる。
いかに、平たく表現するかに苦心する。
よく言われる、難しい事を難しい用語で表現するのは比較的容易であるが、優しく
表現するのがはるかに困難である。
平易さゆえ誰でも口ずさむ事ができる。
まさに心の琴線に触れるものであろう。
A名歌にみる浸透性
何故、名歌はストレ−トに心に響くのだろうか。
メロディ−とともに「感動の世界」に没入されたためだろうか。
名歌の定義はいろいろあろうが、ひとつには「時代の取捨選択」に耐えて残る曲が
名歌といえるのではあるまいか。
歌の自然淘汰といえるかもしれない。
厳選されたものこそ、心に沁みる要素がある。
逆に、内容が良いから時代のふるいに耐えるかもしれない。
うまく時代という土壌にマッチするからこその浸透性かもしてない。
Bメロデ−との相乗効果、サビの効果
歌詞は、詩歌と違う要素が加味される。
一面では、ショ−トスト−リ−であり、平坦な連続では単調でおもしろくない。
当然、強調=聞かせどころ=山場がある。 作詞家の腕の見せ所である。
いかに助走から一気に「高所」にもっていくか。
勿論、山場ばかりではかえってぼやける。 ここぞという「聞かせどころ、聞きどころ」
である。
そのため、頂点をいかに構築するかに腐心せざるを得ない。
3 自作の歌詞
「一人旅情」(演歌調)
背景
離職後の感慨を秘めて、温泉地に行っている。
一番
『ひとり旅立つ背後には、憂いの陰か哀愁か
日々のくらしに惜別し 思いは置き忘れ
それなりにそこそこに 力を抜いて生きてきた
明日を忘れて憂はらし 夜の帳に消えていく』
二番
『湯のなかに、思わず我を忘れたい
想いも憂さも流したい
たまには明日がないほうがいい
ついでに過去もかえてみる 』
4 生きていく上での潤いとしての思い出す歌詞
口づさむ時の快適な一時だけでなく、意欲が湧いてくる。それこそが、名歌の歌詞と
いえるものであろう。そこで、回顧するのは、「校歌」である。何気なく歌ってきたが、歌
詞の意味は大人になって考えると濃縮されている。単純に理解するのでなく、作詞家
の意図をも包括した解釈をしていると深遠といえる。ただ字面だけでない。もっと背後
にある本質的な意図を理解すると、また違った趣でせまってくる。
よく「肺腑を抉る」ような印象的な歌詞は強烈に記憶に残る。
逆に、さり気ない歌詞でも感動する。
その時の心情にあったものも、心に残る。 あたかも、自分自身の応援歌とも思って
しまう。
ともかく、心の中に浸透するもの出なくては話にならない。
メロディ−と共にである。
感銘すると共に、勇気づけられる歌詞こそ不朽の名作になるものであろう。
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はじめに
「人はパンのみにて生きるにあらず」とは至言である。
一度経済学のテキストに、この名句から展開して「前提にはパンが必要」といって
から経済的(物質的)な効用を説いた内容を想起した。
金銭にかんする議題は一見、タブ−視されているように思われる。しかし、「娑婆に
生きる我々にとって」は不可欠な課題といって反対する人がいるであろうか。
むしろ、普遍的で明快な道筋を示す方が単に「現世利益」という視点だけでない処
世術の範疇にはいるものと確信している。
ここでは、金銭を利殖というような通俗的な論議でなく人生上での方策として展開
していきたい。
目 次
1 必要条件としての金銭感覚
@金銭の経済的解釈
A通俗的金儲け
Bライフスタイルに対応する経費
2 有名人にみる金銭観
@経済の神様
A生活設計の一環としての財務計画
B財産と人生の実践者
3 処世術としての金銭感覚
4 人生成功の指標
1 必要条件としての金銭感覚
@金銭の経済的解釈
大上段に構えなくても、この世では空気と同義語で考えて差し支えないだろう。
勿論、原始的生活や自給自足的な生活圏では無縁な経済的要素として金銭は、
意味をなさないかもしれない。
けれども、大量消費の現代社会においては金銭は購買力だけでない機能を果たす。
一面では物質的充足感に対して、「万能の神」と思い込んでいる信条の人もいるだ
ろうが、経済観の違いと一刀両断にしていいだろうか。
他方では、金銭はあくまで手段であって「幸福と同義語」ではないと信じる人の考え
方も卓見と考える。
価値尺度の機能以外には、人によっての価値観が反映しているせいかもしれない。
A通俗的金儲け
いかに蓄財するかといった本や雑誌は、根強い売れ行きがある。
いろいろな方程式が「氾濫」している。
けれども、基本的な事項は簡明である。
風呂場の水に例えて、蛇口(収入)だけの問題よりも抜け出る詮(支出)が問題であり
そのうえでの管理(運用)が肝要という「利殖の神様」の指摘がある。
つまり、収入増大の面のみに固執するのではなく、運用や支出の面も含めた総合的
組立で考えるという視点である。
但し、大多数は収入増にかなりウェ−トを占めているが、それは世間受けの面が強い
ように思われる。
それに、運用面についてもかなり力説しているのが目立つ。
けれども、万人に現実的な方策はまず節約励行だめろう。
その後に、運用に心がけるのが「常道」であろう。
Bライフスタイルに対応する経費
何故貯蓄するのかといったら、必要に迫られてといった答えがかえってくるだろう。
各世代に応じた出費が生じてくる。
例えば、一般的にいって親元離れてからは、生活費を除けば耐久消費財や不時の
備えが必要だろう。
一般的なライフサイクルであれば、婚姻や出産・育児に伴う費用にも手当しなければ
ならない。
その間に、病気や怪我等の思いもよらない出費も余儀なくされるだろう。
それから、「マイホ−ム」という大きな出費が待っている。
子弟の教育費もいまは、巨額になる。 その他、趣味・道楽以外にも「誘惑的」支
出があるかもしれない。
要は、生活費以外も貯えが必要になる。
2 有名人にみる金銭観
@経済の神様
俗に言われる「利殖の神様」でなく、経済の大家の教えがある。
勤勉に努め、収入増を果敢に図る。
そして、極力支出を抑制する。
要は、拡大再生産を図る訳である。
そのための方策はまさに極意であり、簡単には伝授しない「門外不出」であろう。
要は、分散投資である。
以上は、「経済の大家」の教えであり、理論的である。
四つの要素があると指摘している。
? 個人的能力
? 教育・訓練の機会
? 財産継承
? 幸運
以上の要素の複合的な結果のようである。
A生活設計の一環としての財務計画
人生を計画的に生きるという能動的なビジョンを実践した人がいる。
人生上の指標として、仕事・学習などと共に「財務」がおおきなウェ−トを占めている
という。原点は、闘病生活が契機だという。 いざという時の悲壮感が原点になってい
るので、実践する思いは峻烈なようである。
持続的な決意に裏打ちされて、その上での長期的な目標をたてる。
その上で、絶えず点検する。
かなりの意志強固にならないと達成できない。
独自のノウハウがある。長期投資である。 その人の基本線も、まず節約が肝要と
いう事だそうだ。
分散投資で、地道に撤するだけでなく運用にも積極果敢に取り組むようである。
B財産と人生の実践者
誰もが蓄財第一と最初は考えるだろう。
けれども、ある程度の形成に成功したら次に重要になるのは、守成であり、その次の
段階が、有意義な「費消」だろう。
その中で、単に蓄財だでなく支出も同義語となりえるように重要である。
これは、浪費とも違う。社会的にも有意義な費消であるならば、社会への還元という
崇高な費消とも言える。
それには、比較的多大な数字の方がいいに決まっている。
しかし、これは容易な事ではない。
財産的裏付けと、決断がないとなしえないはずだ。
また、高邁な考え方に裏打ちされていなければなしえない。
ある意味では、まさに人生成功者の究極の姿かもしれない。
つまり、ほとんどの財産の社会還元(寄付)による雲散霧消である。
一面では、痛快な人生かもしれない。
3 処世術としての金銭感覚
何も考えずに過ごすことは、一面では理想的である。しかし、そうはいかないのがこ
の世に生きる厳しさである。生活信条の一つの柱に「金銭管理」を位置付ける必然性が
ありえると考えざるを得ない。
この点は、証明はいらない。現世で生きてみて、最初に直面せざるを得ない自明の
理である。「それにつけても、金の欲しさよ」に建前では嫌悪しても、まさか霞を食べて
いける「仙人」以外には否定できるであろうか。 しかし、だからといって守銭奴や拝金
至上主義者になれといっている訳ではない。
社会的規範や道徳律の範囲というミニマムの限界点だけでなく、少なくとも他者との
係わりあいの中でも人後に落ちない交際もできている事が望ましい。
その事を前提にしてこそ、意味がある。
そのため、金銭観念も強固にしていかなければならない。
学校教育では教えないどころか、忌避しているようにさえ感ずる。
しかし、経済観念は社会人になってから必死に修得せざるを得ない。
「健全な生活は、健全な金銭感覚の持ち主に宿る。」は真実である。
4 人生成功の指標
人生において、達成感がある事は生きがいにも通ずる。けれども、成功の指標につ
いてはいろいろ論議があろう。
ここでは、筆者の観点から展開していき、批評は甘受したい。
その中でも不可欠なのが、「金融資産」の一定程度の形成だろう。「だろう」としてたのは、
前提がある。勿論、拝金主義という意味ではない。
生きる上での価値観によっては、様々だろう。肝心な点は、反社会的でなければ人によって
異なるのは当然である。
勿論、様々な価値観や歴史的時代的な背景によって座標軸は大きく異なるだろう。
また、一元化できるほど単純ではない。
しかし、「空手(無)」では実現性がありえるだろうか。
また逆に、「金銭」が唯一の目的化であってはどうであろうか。
三田評論に、「財産は体重と同じでなくてもあっても問題」という記事を読んだ。
まさに、意味深長である。
目標を達成する手段として、金銭の一定の確保こそ人生成功の担保であり、有用な
使い道こそ希求されるものである。
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O「複眼的な情報解析が勝利者」
はじめに
生きる上での必須な要素は、いろいろあるだろう。その中でも、情報は一見すると
重要度がそれほどでもないように「氾濫」しているようにに思われる。
しかし、物質・エネルギ−と共に「情報」が第三の要素と断定しうるほど、社会生活
上でキ−ポイントになっている。
情報は、収集・判別・管理というシステムになるものと考える。
また、現代史においての情報処理についても言及していきたい。生情報の活用の
有無が大きな影響を与えた証左をみてみたい。
情報はいかに入手するかが、最大の眼目といえる。しかし、同じ以上の意味を持つ
のが活用の方策である。
敢えて情報をテ−マにしたのは、有効活用を行なえる事が、今後の高度情報社会
で生きていく必須スキルと確信しているからにほかならないからである。
目 次
1 情報は第三の要素
@情報は鮮度
A情報源の確保
B捨てさる判断力の養成
2 歴史を左右する情報戦
@太平洋戦争での事例
A熾烈な冷戦下での情報戦
Bビジネスや外交での切札
3 情報活用のノウハウは独創的に
4 情報を制する者が勝利者
1 情報は第三の要素
@情報は鮮度
情報は、まさに刺身と同様に鮮度が命といえる。
正味期限(活用期限)をすぎたものは腐敗して有害とさえいえる。
必要な時に必要な情報という鉄則に合致していなければならない。
このような事は当たり前のようでいて、なかなか難しいと感じてる人の方が多いの
ではあるまいか。
まず機敏に情報収集ができるか。得た情報が適切か。そして、その情報を使いこ
なせる手腕が問われる。
正確でかつタイムリ−な情報を持つことこそ第一歩であり、その事に細心の注意と
努力を傾注していけるよう努めたい。
A情報源の確保
情報は公式・非公式を問わず、貴重なものが多い。当然の事であるが、入手してい
なければまさに「絵にかいた地震」(全然、感知できない)ものと断定しうる。
そのために苦心惨憺する場合や、経費が多くかかる場合がある。
逆に、無料や安価な情報源も少なくない。 手っ取りばやいのは、マスコミからの収
集である。また、専門的な情報もあるが、その点でもクチコミが結構有力といえよう。
その為のニュ−スソ−ス(個人的情報源)は、平素から構築するように心がける。
ではどうすればよいか。ノウハウは様々であるが、基本原則は耐えず問題意識を持
続し続ければ自然と集まってくる。
また、良質な水を求めるようなもので相当の投資も覚悟しなければならない。
B捨てさる判断力の養成
情報収集はだれしも腐心するものであるが 、同様に取捨選択も大切である。
多くの人は、情報量の豊富さにまず関心がいくだろう。しかし、肝腎な点は情報の
質であり、真に必要な情報のはずだ。
それには、相当な判断力が要求される。
いわゆる、「ふるいにかける」かける訳である。
膨大な情報は、きちんと管理していないと、検索がたいへんで結果的にはないに等
しいものになってしまうのでは、何のためかわからなくなってしまう。
また、捨て去るのは重大な価値判断を伴うものであり、その過程で情報のランク付
けをなしえるメリットがある。
その前提として、情報のクリ−ニングが必要となる。「がせネタ」対策の意味である。
結果で検証しうるが、それでは間に合わない。
要するに、収集と同じ程度の尽力をすべきものであり、そのことにより完璧な管理に
一層ちかずけるものと確信する。
2 歴史を左右する情報戦
@太平洋戦争での事例
日米の太平洋戦争での激突の際に、物量で圧倒されたのが敗因という指摘は多い
が、情報戦においても日本が劣っていた。
有名な例では、暗号解読の事例が挙げられる。すなわち、戦局の転機となった戦い
といわれるミッドウェ−海戦は、事前の解読によって米国に十二分な迎撃体勢ができて
いた。 また、知っているという事を秘匿するように努めていた。まさに、「知っている」
という事を「知らないように」振る舞う高等戦術を駆使していた。
このような差は、単に軍事面だけではない要素による勝敗の帰趨が決まる事も意味
している。
お互いに解読と阻止に躍起になっているのに、歴然とした差が生じたのはどういう事
だろうか。情報戦を重視した結果であろうか。
A熾烈な冷戦下での情報戦
米ソの冷戦下では、戦火よりも情報謀略の世界で熾烈な戦いがあった。
この点は、表ざたにならないケ−スも多々あったであろう。
特に、双方とも情報機関の充実に力を入れていた。
情報戦の性質上、なかなか表面化しえないのが実相であろう。
例えばキュ−バ危機の時をみてみよう。
アメリカ側が盛んに偵察機で把握したのは、情報戦での優位を得るためだった。
アメリカが積極策で事態を収拾しえたのは裏づけとしての情報が影響していたものと
推察するものである。
Bビジネスや外交での切札
企業や国家においても情報管理が極めて大事である。
いわゆる「企業秘密」や「国家機密」と称されるものなどだ。
個人レベル以上に組織体として、情報管理は死活問題になりかねない。
そこでは、情報の管理の中でもセキュリテイ−が負けず劣らず重要になる。
そこで、有効活用が最大の眼目となろう。 それも価値判断も加味したものである。
使うべき時に適切な情報を最大限に使用するという、鉄則が貫徹しうるかである。
また、組織としてのシステムにも問題である。
個人の所有にしないで、円滑に組織の構成員が使用できる職場体勢が重要である。
これはあくまで「あるべき姿」なので、試行錯誤のプロセスにより一歩一歩構築してい
く事が現実的と考える。
また、遺伝子情報やプライバシ−保護等の秘匿に抵触する微妙な情報は法的規制の
面も含め慎重に対処せざるを得ない。
大きな課題である。
3 情報活用のノウハウは独創的に
情報は収集以上に活用が難しい。眼力が必須条件であり、単なる収集癖であっては
ならない。
多種多様の情報の海の中で、取捨選択しなければならない。
もっと言えば、最大情報量の中に最良の一粒という砂金や宝石の原石を探求するよう
なものだろう。
だからといって、努力を放棄してしまうのでは進展がない。
試行錯誤しながらも、自己にあった情報活用を確立しなければならない。
それも、システマチックにしたほうが効率的だ。
そして、すぐ引き出せる。
一連の流れがいかにスム−ズにいくかが、最大の眼目となってくる。
情報は宿命的に、絶えざる「新陳代謝」が必要だ。
また、判断には知的総合力も要求される。 逆に、独創的な分析が効果を発揮する
余地が大いにある。
この点は、次章で引きつづいて展開していく。
4 情報を制する者が勝利者
生きる上で、上手に情報管理ができるものこそ「世渡り上手」と言える。
それは個人レベルだけでなく、社会レベルに至まで同様である。
前述したように、タイムリ−に必要十分な情報を得て、その上での情報の調理・蓄積
といったプロセスを定型化していくのも一法である。
その為の、アンテナは常時全開しなければという解説は多い。問題は「どのように」と
いう事に帰着する。勿論、絶対的な方策で唯一無二はありえない。
日頃から、多くの網を広げていき絶えず点検する。それも、いかに効率的かつ有効な
取捨選択をしうるかのノウハウの取得である。 大抵、必要に迫られて情報収集するの
が実態であろう。
しかし、問題意識をもって広範に情報収集するのが、望ましい。それも、丹念に時間
をかければいい情報が大抵入手しうる。
そして、人的ネットワ−クも有効である。 クチコミとしての、「生情報」はマイナ−な
分野では抜群の効果がある。
マスコミ情報も、平凡だが重要な情報源である。
要するに、「(情報)の量も質も」という事が言える。
その上で、ATMと同様に「いつでも引き出せる」ようシステマチックに構築しておけばまさに
「鬼に金棒」である。
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