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お知らせ

寺報 花だより vol.23 令和4年 秋のお彼岸号 より

2022年9月10日掲載

 先日、和歌山県の高野山にお参りしました。
 高野山とは、平安時代のはじめに弘法大師・空海さまが開いた高野山真言宗の祖山です。ここには、『空海さまが今なお生きて座禅瞑想し、人々の幸せを祈り続けてくださっている』そんな信仰があります。
 仏教の開祖、お釈迦さまでさえ入滅し、荼毘に付されたと伝承されておりますが、なぜ空海さまに限って、そんな特別な信仰が生まれたのでしょうか。これには『毛は伸び放題、衣も朽ち果て、座禅している空海さまに直接触れた』という高僧の記録がきっかけになった、など諸説ありますが、私は、空海さまの底知れぬ人間的魅力、心の深さにその理由があると感じています。
 それを伺い知るひとつが、永遠の住処として定めた高野山奥の院に「お入りになる」直前に遺された次のお言葉です。「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなむ(この世の、生きとし生けるすべてが救われないかぎり、私の祈りは永遠に尽きることがないのです)」なんと、途方もなく大きなご請願でしょうか。
 それゆえに人々はいつしか、「高野山に登れば、空海さんに会える」そう信じはじめ、今もなお、宗教宗派、国の内外を問わず、「生きた」空海さまにお会いするために、人々が高野山に訪れているのだと思います。
 人はだれも、この世とお別れするその時が近づくにつれ、遺してゆく人への思いを、強くされるのではないでしょうか。それは空海さまのような偉大な人に限らず、たとえば、普通の親が子へ遺す気持ちであれ、空海さまに負けないくらい深く、強く、大きい。私はそう信じています。そしてその思いは、きっとこの世のどこかに、形となり、香りとなりどこかに残っているはずです。
 来る秋のお彼岸には、亡き人の「思いの痕跡」を探し、お墓参りやお塔婆供養をしみてはいかがでしょうか。

合掌
                                          功徳院住職 松島龍戒

 

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